Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

尊いものしかあらへんやん!

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あらゆる観念の呪縛が解かれちゃうと、
あー、ホントに天上天下唯我独尊なんだぁ♪ってなります。

これって、自分だけが他よりも優れているんだぜ!
俺だけが尊いんだぜー!っていうわけじゃなく、

自分としてた範囲が解き放たれちゃうと、
自分も他の人もなく、ぜーんぶ自分であり、
ぜーんぶ自分であると、もうその自分は全体に溶け込みますんで、
ああ、全て尊い。この尊さに何かを足さなくても良いし足すもんなんてないんやーんってなるんです。
まさに尊いものしかあらへんやん!
ってことなんですよねー。

そーすっと、
誰かの評価に気を病む必要もなく、
また、自分の中の自分の評価に気を病むこともないので、楽になるんです。

しんどいなーっていう思いも大体は人の評価だったり自分の評価だったりするわけですね。

 

ここで言う人の評価も、結局は自分が生み出したイメージですので、全部自分の中のイメージっていうことになるんですけどねん。

そしてその評価を生み出す基準が、ある種の観念であって、
ありとあらゆるルール、
同調圧力、
良し悪しの判断が
「こうあるべき」といったような呪縛となり、自身を縛っちゃうわけですね。

あ、こんなこと面白いかも〜♪って思ったとしても、
たちまちある種の判断が、
でもこれはお金にならないしな。
自分の成長にはならないからなー。
ってな感じの呪縛に遮られたりしてね。

この呪縛が、湧き上がるワクワクをも抑え込むことになってしまいますと、
結局、オモロイも閉じ込めちゃうことになりますので、

うーん。
なんかオモロないわぁ〜。って感覚を感じたり、

本当の自分?ってどこにあるんやろう?
って、なんか自分が本来のワクワクを見失ったような気になり、
探求を始めるっちゅうことになったりもするわけです。

探すべきは、どこかにあるありがたい言葉の中でもなく、
スゴイこと、素晴らしいことが起こっていると言われるところに出向いて、何かしらの体験の中に探すものでもなかったんです。

それは、今ここに既にあり、それが単に押さえ込まれていただけであって、
ちゃーんと自身の中にあったんですね。

探すこと自体が、ここにあるということを否定してたっていうね。