Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自己否定をなんとかしないっ!

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おはようございます。
タクさんです。

僕らは、自分という観念をどのように捉えているのか?
って言いますとね。

それは、比較として捉えてたりするんですよねー。

何かを捉えるには、そこに架空の境界線が必要なわけですが、
自分という存在を確立させるためには、他の人との比較でもって確立させたりするわけです。

私は甘い物好きなんですぅ〜。
って言う場合には、比較対象が必要ですよね。

僕、水が好きで、水飲まなきゃ生きていけないっ!というたちなんですよー。
なんてね。
言わないじゃないですか。

これは、みんな水を飲むからですもんね。

でも、甘いものについては、
好まない人と、嗜む程度の人。
そして、好きな人がいますので、
「私、甘いもの大好きぃ〜」
が成り立つわけです。

ちなみに、僕も甘いものが好きでございます。

 

そう言うわけでして、
僕らは周りと比較をして自分を確立させるわけですが、
ひとつ悪い癖としましてね。

比較に優劣を感じちゃう部分があったりするんですよ。

そもそも、赤色と青色に優劣はありません。

ですが、僕らは優劣という観念を持ってしまっているんです。
赤ん坊の頃にはなかった優劣という観念を、植えつけられてきたんですよね。

ですので、自分を確立するために、比較を用いるとき、
どうしても優劣という観念も通しちゃうんですよね。

そして、その観念によって作られるのが、自己否定という観念です。

つまり、自分という観念を作られるときに、どうしても優劣の観念がどっかに入っちゃいがちなんですよねー。

そして、僕らは、自己を通して世界を見るわけですが、
この自己に否定が帯びていますと、
自己否定をとおして世界をとらえるんです。

そして、こうして認識される世界は現実とも認識されますので、
どうしても現実が、自分にとってツラいものとして感じられちゃったりするんですよね。

なぜなら、その現実は自己否定を通しているので、
その自己否定につじつまが合わされちゃっているからです。

つまり、自己否定を証明するものになってしまっているからなんですよね。

よく僕は、
「自己否定や自己評価が低いのはもったいない!」
なーんて言ってるわけですけどねー。

ほんとは、別にそれが悪いわけじゃないんですけどね。
だって、実際には、良いも悪いもないですから。

でも、世界はオモロイ方が良いじゃん!
ということで、もったいないよん。と言っているわけです。

でも、ここでひとつ注意点があるんです。

その注意点とは、
自己評価が低かったり、自己否定をしてるともったいない!
だったら、否定をやめて受け入れようっ!評価を高くしよう!

としちゃうことなんですよねー。
自分の評価を高くしようとするということは、
どこかで、低い評価である自分を認めなきゃいけないですからねー。

それでうまくいくなら別に良いんですが、うまくいかないときは、認めた低評価の自分がいつまでも残っちゃいますのでねー。

それよりは、単に比較によって自己像を作り上げるときに、優劣の観念がくっついてるだけなんだー。
ってことに気づいてみると良いかもしれません。

そして、比較の線引きになってる観念を、ちょっと脇に置いておいてみるんです。

すると、足りないという自分も一緒に置いておかれます。
僕らを苦しめていたのは、実際に足りない自分じゃなくて、でっちあげられた比較にくっついてくる優劣という観念だったんです。

自分を作るための材料が、自分の不足感をつくってたという、
ちょっとしたジョークのようなお話なんですよねん。

 

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