Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

演じてる自分も本来の自分もどっちもあって、どっちも無い。

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人が生活するからには、何かしらのコミュニティーに参加することになってくるわけでございまして、
でもって、コミュニティーにおりますと、どうしても演じなきゃならんという観念が起こったりするわけです。
気楽な関係性なら良いですが、仕事とかになりますと、やっぱどうしても演じなきゃいけない部分が出てきますからねー。

ま、この辺は気楽に演じたったらええんですが、その演じた自分に取って代わられちゃいますとね。
そこに深刻さが生じるわけです。でね、その深刻さが増してきますと、
なんていうか、その演じている自分にそぐわない考え方なり行動なりが罪悪感を作り出しちゃったりするんですよねん。

 

でね。
こういった目覚めとかいう話は、演じた自分じゃなくて、そのまんまの自分を生きることなんだ。
なんていう風に思われるかも知れませんが、別にそういうわけじゃなくて、演じようが何しようが、それがそれなんですよーって話ですのでねー。
なんていうか、いつ何時も、空気を読まない自由人になれば良い!
っていう話じゃないんです。
もちろん、そうしたけりゃそれで良いんですよ。
でもオモロく演じるならそれはそれでもええやーんってことでもあります。

僕も仕事中は、まあ基本的にはダラダラしておりますが、たまにはお客さん相手に、どっちでもええやん♪と思いつつも、
「こっちが良いと思います!!」
とか演じながらゆーてますしねー。

社会人としてダメなんじゃないか!
こういう人でなけりゃダメなのでは?
このままでいいのか?もっとこういった人にならなきゃいけないのでは?

みたいな思いってのも結局のところ演じ方の悩みとも言えるかもしれませんねー。

それが演じ方の悩みなんだとしたら、演技なんやし♪ってことで、さほどの深刻さは無いんでしょうけど、
演じた自分に取って代わられる。と言いますか、
そういった演じている自分という個人がいる。という観念がねー。
深刻さを生み出し、その深刻さが罪悪感になったりすることもあると思うんですよねん。
演技を真実と捉えて深刻になる。みたいな感じでね。

で、ちゃんとしようとすればするほど、どうすればいいのかもよくわからなくなって、
そうなってくると、これってもしかしたら自分らしくないかも!!!
って思ったりして、
今度は自分らしくありたいと思うものの、
自分らしさってどこにあるねん?っていう「自分探し?」といったような、
妙な矛盾にハマっちゃったりもしてね。

いやいや、ここにおりますやん。どこを探そうっていうんですか。

っていうね。

ま、ぶっちゃけ、演じ方についてそれほど考え込まなくても良いんですよねー。
で、起こったなら起こったでおしまい。チャンチャン♪でいいわけなんです。

ああ、あんなこと言っちゃったと悩むより、
いま、ゴメンね♪と思うなら、そう言っちゃえば良いですし、
ま、いいか♪と思うならそれで良いわけでございます。

そして、演じ方で悩む暇があるなら、今ワシは何がオモロイんやろう?
ってワクワクしながらオモロイを表現してやったら良いと思います。

オモロイ優先にしてますと、演じ方なんて、もうどうでもええやんってなってきますのでね。
そうすっと、もう勝手に起こることは起こってきてくれます。

そして奇妙なんですが、演じてたと思ってた主体すらおらん事も明らかになってきてくれるんですよね。

主体もおらんのに何を悩むのか?
あ、悩みすらも主体がおらんかったのか?
あれ、主体があるという観念すら勝手に起こっていて、
この勝手に起こってるということを飲み込んじゃうと、
あれ?あれれれ?

ってな具合で、もう「在るが在る」それ以上でもそれ以下でも無い。

ってな感じになっちゃうんですけどねー。

ややこしいですねー。
この辺のことはまた書いていきますねー。

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