Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

行為者からの目覚め

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自分というのは後付けされた観念なんです。

だって、もし自分が思考を起こしているんだとすれば、なんで思考に悩む必要があるでしょうか?
もっと良い思考を選ぶはずですもんねぇ。

そう、自分という概念もまた思考の中にある一つのアイデアなんです。

その思考の中の自分が、なぜこんなことを考えるんだろう?
なぜこんなに悩みが尽きないんだろう?
と悩むんですねー。

後付けの観念が、自分を悔やむんです。

自分が後付けなんだとしたら、
行為者はどこにいるんでしょう?

罪悪感を持つべき行為者である自分というのもひとつの後付けのアイデアなんだとしたら、もうどこにも行為者もいません。

そう、
ことはただ起こっているんです。
行為者はいません。

 

このメッセージとそれを読むあなたのあいだに分離はありません。
分離というのは行為者がいるという誤解と一緒に現れる概念なんです。

この行為者がいないを、これまた「自分」の中で解釈しようとする働きも起こったりします。
すると、
「だったら警察はいらんだろ!」
とか、
「じゃあ私はこれからどうやって生きていけば良いんだ!」
とか、
「無責任じゃ無いか!」
なんて思いもまた起こってくるかもです。

はたまた
「まだ自分が抜けない」
「どうしても自分が居座ってる。」
みたいな思いも出てきたりするもんです。

でも、
またそれも、反応から起こってる思考であって、
そして、その思考には、やはり行為者はいないんです。

行為者がいないということが、単に明らかにされると、
反応から起こる思考、そして、思考から起こる反応も徐々に行き場所を失っていきます。

すると、思考の中の不安や恐怖からくる反応によって余裕がなくなっていたスペースに余裕が生まれてくるんです。

その空いたスペースに、
五感を通した反応でもなく、
記憶からくる反応でもなく、

純粋に湧き上がってくる表現が起こってきます。
これが、あなたのオモロイであり、ワクワクなんです。

だぁかぁらぁ、、、どやって行為者がいないのを明らかにするのよー!
ってね。
思ったりすると思うんです。
でもね。
行為者がいないんだから、どうするか?なんて無いんですよね。
この辺がジレンマになってるところだと思うんです。

何もしないでもありません。
何もしないをしちゃいますからねー。

だからね。
もう単にみてみるしか無いんです。
ほっとく感じで思考を単に、
お!起こっとるねぇってみてあげるんです。

単に気づいていることに気づく感じです。

あ、こういう思考が起こってるなー。
こんな反応が起こってるなー。
ってね。
単に気づいてあげると、思考は現実化の力を失います。

「ありゃ、バレちゃった?」
てなもんです。

そうやって、気づいていってあげると、
空きスペースができてきます。

そして、ああ、どこにも行為者がいないんだという発見と納得。
これが、降参なんです。

どうにか行為者でいようと頑張ってた自分という観念の降参です。

 

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