Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全てはぜーんぶ同価値ですし、、、。

f:id:takuteto:20171115120952j:image

全てはぜーんぶ同価値なんですよねー。
だから、何かがすごくて何かがダメっていうことはないわけです。

でもって、好きが良くて嫌いが悪いということもありません。

笑ってるのがよくて、泣いてるのが悪いわけでもなくぅ〜、
そして、楽しいのが良くて、苦しいのが悪いわけでもありません。

もうその辺は徹底的に同価値なんです。

 

でね、全てが同価値やとしますとね。
もう全てが素晴らしいとも言えますし、全てに価値はないとも言えちゃうわけなんです。

でも価値がないって聞いちゃうとしょんぼりしちゃいますよねぇ。
そのしょんぼりも見当違いってことですので、しょんぼりすることはないんですよね。
価値というのはそもそも差がないと発生しませんので、その差をでっちあげないかぎりは起こり得ないんです。
で、価値があるように見えるということは何かがでっちあげられとるっちゅうわけです。

様々な現れがあり、その様々な表現は互いにひとつながりです。
これは、別にガッツリと一つにつながっているというよりは、
単に分離というコンセプトを当てはめない限りはそこに分離がないということです。
分離というコンセプトを当てはめることによって、個性や個別のモノがあるように見えているんですよねん。
で、その個性を何かしらのコンセプトでもって他の個性と比べるとき、
そこに価値の差や表現の違いがまるであるかのように見えるわけです。

単なる表現の違いがあるだけなら、それはそれで以上ってことで終わりなわけですが、そこに価値の差が見えるということは、どこかにその価値を測る架空のモノサシがあるというわけです。

色と空。
精神世界と物質世界。
豊かさと貧しさ。
キリンさんとゾウさん。

これらは整理分類されたコンセプトです。

全体が全体として表現している中で、
何かしらのコンセプトのもと整理整頓して、それを分類し、
さらにそこに価値の差を付け加えると、次はその差から物語が生まれます。

「誰かと比べて、自分はまだまだだからもっとウンヌンカンヌン。。。」
「あいつの考えはダメだ!僕の方が偉いんだいっ!」
「あの聖者さまがおっしゃることはまさしく真実に違いない!」
「ちちちち、、、ちがうわっ!!!!!どどどど、ドーテイちゃうわっ!!!!」

っていう頭の中のおしゃべりみたいなやつですね。

でね、ややこしいのは、そうやって判断が生まれるのもまた全体の表現やというわけなんですね。

あかん!想念に取り込まれとる!って思ってなんとかしようとするなら、それもまた一つの想念ですからねー。

頭のおしゃべりがあるならそれもまた全体の表現やというわけです。

この全体の表現から目を背けると、目を背けてますので、全体性は見えません。

でも、この全体はまさに文字通り全体ですので、もう目の前っていうか目の中までもが全体に溶け込んでおります。

だから離れようがありません。

見抜かれてようが、取り込まれてようが、目を背けてようが、それでもうすでに「それそのもの」なんです。

その全体にリラックスするというのは、何かを何かとして見なそうとするクセを置いておくっていうことです。

これって、あれこれわかろうとするその衝動をちょっと置いておいてみる、ということでもあるんです。

▼facebookページはこちら。毎日ひとことアップ中!
もしよろしければ、「いいね」をして、フォローをお願いします