Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

光だけを選択することもできなければ、闇だけに染まることもできませぬ。

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僕らってね。
何かを考えるとき。
何かを掴み取るとき。
何かを何かとみなす時には、
なんていうか物事に架空の境界線を引くんです。

で、この架空の境界線によって、架空の分離の世界を作り出すわけです。

そして、
「いい事がありますようにー。」
なんてね。いいことを求めるからには、悪いことが必要となります。

どっちかだけを受け取ることはできません。

なんでか?と言いますと、いいことと悪いことには実際には境界線はないからです。

僕らはねー。光だけを選択することもできなければ、
闇だけに染まることもできないんですよねん。
光を選択した時、僕らは同時に闇を帯びるわけです。

 

闇がないと光は存在できず、光がないと闇は闇であり続けられません。

そして、この片方だけを受け取るのだとしたら、そこで全ては消え、
それは、光でも闇でもないなんでもないものになってしまいます。

闇のない光は、なんでもないものですし、光のない闇もなんでもないものです。
すると、両者は全く同じものとなります。
そして、そこに価値の差もなくなります。

光と闇。この二つの陰影で、僕らは、形を認識しているわけですからね。
闇がないと、陰影がつかめなくなりますので、全体に真っ白が広がるだけとなります。真っ白だけの世界となりますと、そこに色彩は無くなります。
そして、色彩がないということは、白もなくなり、なんでもないものになります。

闇だけを選んでも、形は認識できず真っ黒だけになります。
全体が真っ黒なので、色彩はなくなり、なんでもないものになる。
というわけですね。

なんでもないものを、分離の概念で掴み取った時、
初めてそこで、何かを認識できるわけですが、

そこにある分離はあくまでも概念上の分離なので、
コインの表を掴み取った時、同時に裏も掴んでることになるわけです。

そして、物事を掴み取る時、全ては常に変化していますので、固定されません。

寄せては返す波のように、常に変化し、呼吸し続けています。

なので、分離を掴み、そのどちらかを、望ましいことと決めたなら、必ず望ましくないはセットで存在し続けるんですよねん。

コインは表が正解なんだ!!と決めた途端、裏は誤りであるという概念もセットで付け加えられちゃうわけです。

そして、握ったコインには、表と裏が誕生するというわけです。

ま、そうやって、僕らは世界を非常に詳細な分離によって認識しているんですねん。

物事を掴んだ途端、分離するわけです。

というわけでね。
「それ」を知ろうとすればするほど、僕らの「それ」は覆い隠されてしまうんです。

だとすればね。
もう逆を行くしかないんですよね。

何かを掴み取り、何者かになる。
というよりは、
アホになる。

という方向性です。

何も掴まず、アホのままで在ってみるんです。

このアホに溶け込んだ時に、気づくのは、
グオォォォ!!!!掴みタイィィィ!!!

っていう衝動です。

掴まずにいると場合によっては、ある種の恐怖を感じたりするかもしれません。

両足で立ったことがないのに、手の杖を手放すような恐怖です。

僕らは、杖をつかまずとも、立てるのに、
杖を掴んでないと危ないだろうと誤解をしているんです。

その知識の杖をもう、ほったらかして、
どちらが光明への道なのかを悩むこともやめて、

なんとなーく、面白そう!
っていう道をね。
選んでみたらいいんです。

杖から手を離してみたとき、その杖は架空の杖だったことに気づくんです。

 

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