Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」は尊い言葉の中にあるわけでもなく、指し示された指の先にあるわけでもなく、、、。

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昔見たテレビでね、多分「世にも奇妙な・・・」みたいな番組やったと思うんですけど、こんな話があったんです。
特に目立たない普通のサラリーマンだった主人公が、なぜか急に注目され出すんです。
挨拶するだけでも周りからキャーキャー言われ、会社で普通に電話をとり、「もしもし!」っていうだけで周りから拍手と歓声の嵐!
最初は主人公も、不思議がってたんですが、テレビの取材も来るし、どんどんみんなに注目されるしで、気を良くして行きます。
ついにはライブも行われ、お客さんも超満員!、電話片手に「もしもし!」と、やるだけなのに大ウケ!
大ブームになります。
でもそのうち、飽きられてきてブームも過ぎ去っていく。
みたいな話やったと思います。

詳しい話は忘れてしもたんですけどねー。

 

で、なんでこんな話をしてるのかと言いますと、
ここで書いてる非二元話ってのも、この「もしもし」となんとなくニュアンスがにとるなぁーって思ったからなんですよね。

僕、毎日こんなブログ書いてるから普段からこういう非二元っぽいことにどっぷりでそんなことばっかり言っとるのか?と言いますと、
全然違いまして、
まあ、普段
そういう話をすることはまずありませんし、
非二元のメッセージを言ってはる人の動画とかをみたりとかもまずしないんですけど、

たまにね、
この人の動画を見てみてくださいってオススメされるんで一応見てみるんです。
いわゆる非二元のティーチャーさんの動画なんですけどね。
で、そういうのを見た時、
特に聞いてるお客さんがたくさんいて、そんな中で「それ」のことを話してはる人を見てると、なんか、冒頭の「もしもし!」の話とシチュエーションが似てるなーって思ったりするんです。

まるで、地球は丸い!みたいな、めっちゃ当たり前のことを言ってはるティーチャーがいて、
それを当たり前ではなく、素晴らしく価値あることだ!というふうに聞いているお客さん。
みたいな構図でしょうか。

別にそういう話に価値がない!って言ってるわけじゃなく、
聞いてはるそのお客さんと先生との間に、一切の価値の差は無いっていうことですね。

誰かが特別なわけでは無いんです。
また、一瞥体験!とか悟りとか目覚めとかが特別なわけでもありません。

どちらかというと、特別さを求め、特別さを作り上げ、作り上げられた特別というものになりすぎていて、
普通、というか「そのまんま」が置き去りになっちゃってるんです。

「そのまんま」はそのままで尊いんですよねー。

特別さが分離の感覚をより色濃くしておるだけやったわけです。

特別というものは、単なるこだわりの中だけにあった幻想、イメージやったわけですねん。

せやから、誰かを特別に仕立て上げることもなく、
自分が何者かになる必要性もないんです。

そんな必要性が、元々なかったことが明るみになってくると、
分離というものが単なるイメージの中だけの物語だったことも明るみになってくるんですよねん。

というわけで、
偉い先生の言葉の中に尊いものがあるわけやなく、
その言葉の指し示す先のどこかに何か尊いものがあるわけやないんです。

特に誰かを信奉する必要も何かに帰依する必要もあらへんのですよね。

誰かに対して、また何かに対して、すごい神秘やステキさを感じるのであれば、
それはあなたの中にある神秘やステキさを見ているわけです。
すでにあなたがそうだからです。

だから、
指し示されてる先におるのは
あんたなんですよ!
あんたがすでに尊いんですからね!

っていうことです。

っていうか、尊いしかなくてそれで全てですので、
もうそれが誰なのか?なんてレッテルも要らんのんですけどね。

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