Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

非二元を学ぶ??

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おっはようございます。
タクさんです。

もしね、あやとりが上手になりたい!
って思うのなら、あやとり名人に技を教えてもらうのが近道ですよね。

料理だってそうです。
上手な人に教えてもらうのが近道です。

ちなみに
僕はクラシックギターを習ってますが、
普段あまり練習しないので、上達は遅いですが、
やっぱり一人でやるよりは先生に習ってる分、上達は早いように思います。

知らないことを教えてもらうことによって、
そのことがより楽しめるようになる。
それが学びっていうものですからねー。

 

ただ、自分が習熟したものがね。
どんな分野ものであれ、それが他の分野のことよりも優れているのか?
というと、全然そういうことはありませんよねぇ。

あやとりが上手くなることと、コマ回しが上手くなること。
これらにどっちがスゴイとかありませんもんねぇ。

料理を作る能力が高いことと、歌が上手なことだって、
どっちがスゴイとかいうことはないんです。

これはお金儲けの上手さでもそうですし、
スピリチュアル的な波動の高さも一緒です。

お金をたくさん持ってる人が、価値が高いわけでもないですし、
もちろん、持ってない人の方が偉いというわけでもありません。

お金儲けが悪いことでもなけりゃ、
お金を儲けようとしない、清貧が素晴らしいと言うことでもありませんし、

波動が高けりゃ素晴らしくて、
低けりゃダメってわけでもないんですよねん。

あやとりが上手いのは、あやとり業界の中だけでは
スゴイねー!ってなりますが、それが人ととして素晴らしいのか?高尚なのか?
と言うと違うじゃないですか。

それと一緒なんです。

でね。
非二元ってね。
何かを学ぶっていうことじゃ無いんですよね。

なので、何かに習熟すると言うことじゃないんです。
なので、非二元を教える先生というのは実際のところはおらんのです。

ただ、あやとりが上手になることが全てだと思ってたとして、
でもあやとりができない自分を卑下したりしてるんだったら、
それは、んなことないですよーってね。
ゆーてるだけなんですよね。

そういうことって教わって習熟するんじゃなくて、
自分の中で気づき、明らかになることなんです。

何かを掴んでいたことに自分の中で気づいてみることですのでね。
その気づきのガイドでしかなくて、特別な何かがあるわけでもなく、特別な何かを知っているわけでもないんですよね。

なので、こういった話は自分が「あ!」と思ったときだけ、その「!」のある自分の中の空間の中でリラックスしてみたときに、
初めて、何かを掴んでたことを知るわけですのでね。
教えを吸収しようとするよりは、自分に起こる「!」をみてみたらいいわけです。

もし、教えを聞いているんだという意識がどっかにあったとしたら、
ややこしい混乱に巻き込まれることもあったりするんですよね。

ややこしい混乱っていうのはなに?かと言いますとね。

例えば、非二元のメッセージを伝えている先生の趣味があやとりだったとするじゃないですか。

するとその先生は、非二元のメッセージとあやとりの話をするわけです。

そういう話を聞いてる生徒さんがね。教えを吸収しようとしていたとしたら、
あやとりを極めた先に非二元への目覚めがあるんだ!って誤解しちゃうことなんですよね。

これは先生側も、無自覚な人も多いように見受けられますが、
言葉で表現した時点で、ある程度のウソというか、
言葉ではないものを言葉で表現するので、個性が入っちゃうんですねー。

インドの聖者さんの表現にはヒンドゥーのカラーが入っちゃいますし、
スピリチュアルが大好きな人の表現にはスピリチュアル的なカラーが入るわけです。

僕なんかは、ズボラな性格ですので、楽に楽しんだらええやーん。みたいなニュアンスが入ってるのかも知れませんので、
頑張るのが好きな人には、まるでそれがダメなのか?っていう風に見えるかも知れません。

でも、全然ダメなんかじゃなくて、頑張るのが好きなら、楽しく頑張るというゲームを遊べばいいんです。

ただ、頑張る方が優れていて、そうじゃないのが劣っているというわけじゃないだけなんですね。

僕の勝手なイメージでは、インドの聖者さん界隈ではヒンドゥーのカラーを帯びた表現が多いような気がするし、
日本ではスピリチュアル的なカラーを帯びてるパターンが多いかも知れませんね。
神道とか仏教カラーが帯びている場合もありますね。

このカラーの方があやとりの部分ですのでね。
それは表現者の趣味なんです。
非二元のガイドを求めてるのだとしたら、そう言った趣味の部分は無視したらいいんです。

えーー。瞑想のイベントなのー
とか、また神社のイベントなのー。
スピリチュアルのワークなのー。
っていう部分はね。

おもろなさそうなら無視したらいいんですよね。

もちろん、どんなものでも「それ」の一部ですのでね。
なんかつながってるようにも見えるかもしれませんけどねー。

それは、
茶道でも華道でも、空手道でも合気道でも一緒ですのでねー。

あやとり道でもいいわけです。

あ、この先生は神道的な儀式が好きなんやなー!
でもワイはそれには興味ないわぁー。
それよりも、銅板のエッジング習ってる方が楽しいわーって思うのなら、
そう言った儀式の先に非二元の目覚めが待っているというわけじゃありませんので、パスしたらいいんです。

銅板エッジングリトリート。みたいなのがある場合に参加すればいいんですよね。
それだったら、大好きな銅板エッジングをやりながら、非二元はなしを聞けるかも知れません。

そんな話の中で自分の奥で「!」があったなら、その中でリラックスしてみればいいんです。

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