Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分の終わり、探求の終わりについて

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僕がいて、あなたがいて、そして僕の身体があって、
今日はちょっと背中が痛くて、座り仕事で腰が痛くて、
今日の仕事はこれで、これが遅れるといろんな人に迷惑をかけてしまう事になって、期待以上のものを出すことができれば良いけど、、、アイデアは全くなくて、
あー気が重い。
そんなこんなで僕の人生が紡がれて行く。

みたいなね。

人と人とが会って話していると、どうしても僕とあなた、が大前提になってますよね。
それが大前提として共感されていて、そこから話が進む。
みたいなね。

この大前提がもう思いっきりクセづいておりますので、
非二元なんかのことを聞いたりしていても、どうしてもその大前提を持ち出しちゃったりしちゃうんですよね。

あの人の非二元話は何か自分の中に感じるものは確かにあるけど、
自分はまだ、あの人のように話すことはできないから、まだ自分には知らないことがあるはずだ。。。

みたいなねー。

これ、ぜーんぶ幻想なんです。

分離の概念を大前提に置いた物語やというわけです。

んなこと聞いちゃうと、じゃあその物語性を確かめたくなったり、物語じゃない真実を探しちゃったりして、、、。
それもまた、探求という物語やったりしてね。

「突然、私が消えるんです!」

なんて聞いたら、どうやったら消えるねん?
と疑問に思ったりして。

 

でもね。
じつは、物語って連続して起こってるわけでもなく、
常に確かめられ、作り上げられておるんですよねん。

誰かと大前提を共感すればするほど、その信念を強固にしておるわけです。
そして習慣化してるわけです。

僕らの頭ってとても便利なので、ショートカットをいくつも作ることができるんです。
最初は頭を使って設定していたことが慣れてくると、何も考えずにショートカットできるんです。
それが習慣化なんです。

習慣化されちゃった信念は普段は何気なく現れておりますので、なかなかそれに気づくことができないんですよね。

何千、何万というショートカットが作られておるわけですが、その土台にあるのが「私」という概念やったりするわけです。

土台ですので、自分でその概念を消すことって出来ないんですよね。
その自分もその土台の上におりますのでね。

でもね。
消す必要なんてないんです。

元々は無いもんですのでね。
あるように見えてる蜃気楼のようなもんなんです。

つまり、何かをそうだとみなしている間だけその世界が構築されとるだけなんですよねん。
夢を見ている間だけ夢が展開しとる。
ヤラシイ妄想をしとる間だけ、妄想の世界が展開しとるのと同じなんです。

それは、展開しているように見えて、じつは何にも起こってませんよね。
でも、起こって見えることも事実ですよねぇ?

なので起こっていて起こっていないわけです。

コインは裏もコインで表もコインやというわけです。

色も空も同じもんやんねー。色即是空、空即是色やんねー。というのと同じことですね。
ぶっちゃけ、色も空もありません。
コインの表はこれで裏はこれっていうのもコインに断りもなく勝手に決めたルールですしね。

何かをわかろうとするということは、何かを何かとして見なそうとする働きです。

そして、わからんままにしておけない衝動、そのエネルギーが探求のエネルギーやというわけです。

それが単なるエネルギーやと見破られると、エネルギーがエネルギーとして活動できる推進力が失われます。

なんていうか、夢の中で夢だと気づくと、夢の展開が続きにくくなるのと似てますかねぇ?
ドッキリを仕掛けてる途中で、これドッキリやろ!って見破られると、それ以上続けるのは照れますよね。

そんな感じです。

なので、悟り的なメッセージを自分に言い聞かせる必要もないんですよね。
言い聞かせるというのもまた、何かを何かとして見なそうとしている働きに過ぎないわけですからねー。

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