もし、自分とは何者なのか?というのを定義づけようとするのであれば?
ってことなんですけどね。
そこで、定義づけされたものって、ひとつの考えによって導かれたものになるじゃないですか?
でも、この考えの持ち主が自分だとしたら、自分の持ち物に果たして自分そのものを定義づけられるのか?
といったジレンマにぶつかったりするんですよね。
つまり、
考えはいつまでたっても、考えであって、自分はその範囲を超えてなきゃいけないわけです。
そうじゃなかったら、単なる考えと自分が同等になってしまいますからね。
なので、考えでは自分は何者か?ということを突き詰めることってできないんですよね。
だからこそ、
私は何者なのか?という問いは人を惹きつけ続けるわけです。
考えってその時々で変わりますし、状況でも変わります。
なので、それを使って確固たる自分を掴むことはできません。
だけど、何かを掴むには、思考を使うしかなく、
どこまでいっても自分というものは掴めないワケなんです。
なので、どこかで妥協して、
職業は、地位。
容貌や生まれた国。
性別や名前。。。
そういったことを自分だと定義づけて、
これらのパーツをバージョンアップさせれば、自分もバージョンアップされるだろう。
といったようなねー。
そういったことで、なんとか納得させようとしてたワケなんですけど、
でも、
自分に嘘はつけませんのでね。
心の奥では、
自分はこの「名前」でもないし、
「職業」でもなく、この「地位」でもない。
そんなことが自分なワケがない。
ってことを知ってるのでね。
ここに納得できん!!!
もう自分をウソで納得させてはいられない!!!
ってなってきて、
そこから探求が始まった。
という方も結構おられるかも知れません。
僕は結構折に触れて、「覚者」なんて人はいてませんよ。
そして、何かが変わるということでもないですよ。
みたいなことを書いてたりするワケなんですけどね。
「私はいない」がわかった人になる。
っていうことでも、
私が消えて無くなる。
というわけでもないんですよね。
ここで、消えるとか無いと言われてるのって、
定義づけられたイメージ上の自分のことです。
それが無いと言っているだけなんですよね。
職業でも、地位でも、感覚でも、思考でも無い。
というわけです。
でも、自分という感覚?は在るじゃ無いですか?
よーく突き詰めてみると、
「在る」はありますよね?
その「在る」に自分という定義をくっつけて、
そこから、この「自分」は何者なのか?
と探求しているわけですけどね。
この探求がおこるのも、「在る」を知っているからです。
そして、それをなんとか掴もうとしているから、
この掴もうとすることがジレンマを生じさせているという
グルグルを生じさせておっただけやったんですね。
掴むというのは、思考によって定義づける。ということですが、
思考でどんなに定義づけてみても、それは単なるイメージを抜けることはできず、
本質に迫ることもできない。
ってことが気づかれますとね。
あ、万能やったと思ってた思考って、単なるイメージと似たようなもんやったんやん。
ってことが気づかれてきます。
この思考万能説という観念が見抜かれてきますと、
まるで、
ものすごく強いと思っていた、最強のボクシングチャンピオンが、
セロリを残してた。。。
みたいなね。
相変わらず下手な例えですけど、
思考万能説が、思考も単なる現象の一つでしか無いっていうことが、
明らかになってくるんですよね。
そうなると、もう思考で自分を定義づける必要性もなくなります。
だって、最初っから在ったし、ずっと在りますもん。
この「在る」に装飾も定義も必要ありませんもん。
それ以前に在りますからねー。
ってなってくるんですよね。
そうなると、もう探求のエネルギーもチカラを失うわけなんです。
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