Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

安心さを得たい時

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安心感を得た~い!って思いは、安心感を望んでるからこそ出てくるわけでして、
望んでるからには、安心感が無い。
つまり安心できない!という思いがあるわけなんですよね。

で、そう思っている間だけ、安心感のなさを経験しているというわけなんです。
しかも、イメージの中だけでね。

よくねー。
それそのものって海に例えられたりするじゃないですか。

これってうまい例えやなあ。
って思うんですよね。

あ、
あとオープンシークレット。
っていう言い方もうまい例えですよねー。

ちょっとその言い方欲しいくらい(笑)。

ま、それはさておき、

安心感のなさを経験している間だけ、その安心感がないっていう名前のコップの中にね。
海の水をすくって閉じ込めちゃう。

そしてそこに閉じ込めてる間だけ、それそのものがなんか限定されているような。。。
そんな感覚を感じているんですよね。

で、その限定された感覚がまた安心感を求める。。。みたいなね。
鶏が先か、、、卵が先か、、、みたいな話になってくるわけですが。。。

ただ、面白いのが、そのコップが実際にあるわけじゃなく、すべてイメージの中でそれを作り上げてるっていうことであって、
実際は海の水を閉じ込めてるコップが実際にあるわけじゃなく、海は海のままあるわけなんです。

つまり、今のそのまんまがすでに「それそのもの」であるわけなんです。
隠されているように見えるのは、イメージの中で自分の人生や、自分の体、自分の心という限定された何かを作り出し、そこにそれそのものを閉じ込めてるので、本来の広さが感じられず、限定されちゃってるんですが、限定されてようが、もうそれそのものは常に感じられているんです。

それそのものを感じた上で、そこに限定という観念を引っ付けてるだけでね。

限定されている間は、「それそのもの」を漠然と自分自身と認識しています。

そして、その自分自身は、ある時は身体になったり、ある時は心になったり、ある時は人生になったり、ある時は感覚になったりしているわけなんです。

イメージの中の限定が外れると、それそのものが残ります。

限定を外すと書きましたけど、面白いことに限定の中にそれそのものを閉じ込めてたと思っていたけど、その限定が外れて気がつくのは、その限定もそれそのもののほんの小さな一部でしかなかったという、逆転の真実が見えてくるんですよね。

クッソややこしいですよねー。
んなこと言われても。

でも、この逆転が明らかになっちゃうと、見えてくるもんがあるんです。

例えばね。
「あらゆるレッテルを外しちゃえば、それが残る」っていう言葉があるじゃないですか。

これって、言葉のままを受け取ってしまうと、じゃあレッテル剥がしに精を出せばええんやな!ってなっちゃうんですけど、
そうすると、余計に限定されたイメージの中に絡め取られちゃうっていうジレンマがあることに気づくんですよねー。

なぜならレッテルという幻想もそれそのものの一部だからなんです。
一部というと、なんか分離しているように見えますけど、本当は分離してませんので、そのまんまのそれそのものです。

なので、剥がそうとするのは、
それそのものの中で、それそのものに抵抗してる。
みたいなね。変な一人相撲を演じちゃうことになるんですよねー。

安心の中で、安心がないという思いにふける。

そして、安心がないという思いがあるから、安心を求めてしまう。

っていうジレンマだったりするんです。

僕がよく言う「そのまんまにしておいてみる」というのは、その抵抗を一旦脇においてみるという試みに近いのかもしれません。

そこで何かを掴もうとする癖をそのまんま見てみるんです。

どうにも言葉の限界がやってきたようなので、今日はこの辺にしておきますねーん。

まった明日~♫

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