既知の中にある無知。
未知の中にある智慧。
ゆーてねー。
わかりにくいわ!
ちゅう話ですね。
このわかりにくいわ!
ってことを今日は書いてみよかな、
と思ってます。
お早うございます。
タクさんです。
既知の中にある無知。
未知の中にある智慧。
なんかゴロが良くてカッコいいけど、
結局のところ、
どう言うことやねん!
ってことなんですけどね。
まずは、
「既知の中にある無知」
からいきましょうか。
既知っていうのは、何かしらのものに
「これは○○である」といったレッテルを貼ることなんですよね。
そうする事によって、元々は流れのようなものであったとある現象は、固定化されたレッテルに置き換わってしまうんです。
あくまでも概念上でね。
実際は何も変わってません。
全てのものは、固定化されたものって実はございません。
ここが海岸線ですー!って線引きしたところで、
海は満ちたり引いたりしておるわけで、
この線はウニョウニョと変化し続けておるわけです。
もちろん僕らの体だって日々変化を繰り返しておりますし、
動き続けております。
全ては動きです。
呼吸も吸って吐いてを繰り返し、
思考も感情も起こっては消えていきます。
全ては常に動き回っておるわけです。
これに固定化されたレッテルを貼り、
そのレッテルを知った事とすること。
それが既知であり、
そして、この既知は、実際の動きを見ないようにすることでもあります。
すると、実際のことは見てませんので、無知だと言うことなんですよねん。
真実は固定化して掴むことはできないんです。
つまり、レッテルでは表現できないんですよねー。
となりますと、真実とは未知のものございます。
すべては未知に溢れていて、未知とは命そのものです。
命そのもの。
それはどういうことかと言うと、
動きでありエネルギーである。
と言うことなんですけどね。
智慧とは、ただそのまんまの明らかさです。
おしょさんに言わせるともっといろんな解釈が出てくるんでしょうけど、
結局行き着くところは、ただ、そのまんまの明らかさに落ち着くんやと思います。
そしてその智慧とは、まさに未知の中にあるっちゅうわけなんです。
そのまんまの明らかさが現れると、
既知に頼る必要性は失われます。
別にそれは完全無欠な人間になるわけではないんですけどねー。
完全無欠になる必要性なんてどこにあるねん!ってことやったんです。
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