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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

自分こそが正しい!

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正しいとか間違い。って考え方がありますよね。

で、この正しいってのは、何に照らされて正しいとされているのか?と言いますと、
やっぱりそれって、自分の中にあるルールな訳ですね。

このルールが多ければ多いほど、
そして、このルールに厳格であればあるほど、
しんどくなってくるんとちゃいまっしゃろか?
って思うんですよ。

私の考えこそ正しい!って思いが強けりゃ強いほど、
その考えと違うルールに関しては、
「おまえー!間違ってるぞー!」
って糾弾したくなってくるっていうかね。

例えば、スピリチュアルって好きな人も嫌いな人も意見が分かれるところではあると思うんですけど、
嫌なりゃ見なきゃいいし関わらなきゃいいわけですし、
好きなら、好きでいろいろと楽しんでたらいいだけですよね。
で、大半はそうやってるんだと思います。


これは野球が好きとかサッカーが好き。
いや、私は銅板のエッジングが好きなんだ!
ってのと同じようなものですよね。


でも、やけにスピ(私の信じている)は正しい!って思いが強いと、

「あー。もう闇の陰謀が襲ってきてるのに、パンピーたちは呑気だなぁ。
あれじゃぁ、アシェンション出来ないよねぇ。私はもっと浄化してアセンションしちゃうぞ!」

みたいな、インド人もビックリ!普通ならドン引きなことを思っちゃったり、
周りの人に、あなたもちゃんと浄化しなさい!って説教したり。

はたまた、

「スピはダメ!やってるやつは浅いわぁー。社会的に底辺だわー」

って、スピ叩きに貴重な時間を費やしてるわりには、その悪口って全部自分の投影ですやん!

みたいなのもあるわけで。


その辺までこじらせてくると、大きなお世話といいますか、
楽しく野球観戦してる中に入ってきて、
「こんなのいい大人がボールを投げたり打ったりしてる遊びじゃないですか!」
「そんなのにどんな意味があるんですか!ダメですよそんなのに熱狂してたら!」


ってわざわざ野球場まで来て言いに来るくらいの奇妙さなんですよね。

いずれにしても、
どっちが正しいとか、
どっちが間違いってないんですけど、
自分にとっての正しさがあまりに大きくなりすぎちゃうと、
その正しさにがんじがらめになっちゃって、
苦しんじゃったりするんですよねー。
それが行き過ぎると、カルトっぽくなってくるわけです。

でもって、自分こそが正しいのに!って思いが強くなると、
なんか、しんどくなってくるんですよね。

結局、苦悩ってのも、この自分ルールへの執着の度合いが強けりゃ強いほど、
大きくなったりするんです。

何かうまくいかない!
なんか腹たつ!
って思いばっかりが出てきてしんどい〜。ってなってる場合には、

もしかしたら、
自分は今、なにかしらの正しさにこだわりすぎとりゃせんかいのう?
って見てみたらいいと思うんです。

そしたらなにかしらの自分ルールの中の正しい意見ってのが出てくるかもしれません。
その正しい意見はまさにその通りだ!って思うかもしれませんが、

「ほほーん。そういうの、すきなのねーん」

くらいの、わりとどうでもいい!って感じで、そこに置いといてみたらいいと思うんです。

そういった思考や観念に対する執着。
この執着ってのが、なんていうか接着剤のようなものとしてあるわけなんですが、
そのまんまにして置いてやると、この接着能力が薄れていくんですよね。

この接着剤が何かにひっついている時だけ、「自分」っていう観念があるわけなんですが、
接着能力が薄れて、ペロンと剥がれた時。

そのとき、どんな観念も採用していない。
ただ、あるがまんまの「それ」が明らかになるわけです。

そこから、また何かにペタって接着しちゃう場合に、
その明らかになった「それ」が体験として、自分の中で1つの解釈として理解されるんです。
それが一瞥体験ってやつなんですね。

でも、体験はすでに観念化されちゃってるわけですので、
一瞥体験と「それ」とは全く関係のないものになってしまっちゃうわけなんです。

でも、面白いことに、
接着剤って一回剥がれると、もう前のようなピタッと感って戻ってこないじゃないですか?

それと一緒でね。
執着ってのも一回剥がれちゃうと、もう以前のような強さってなくなってるんですよね。

そうやって執着が弱まって行って、
どこかで、
「なんで観念にペタってひっついて、それを自分としとったんやろう?」
「そして、その自分が観念をはがそうとするなんて、まるで回転グルマの中にいるハムスターみたいなもんやないか!」
って気付いた時に、

もう、探求が終わっちゃうわけなんです。
探求の意味が無いことが明らかになるんです。

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