
## はじめに
どもー!
食品等の袋に入ってるシリカゲルっていう乾燥剤があるじゃないですかー。
あれって、これ見よがしに「食べられません」ってでっかく書いてありますよね。
あれを見たら「舐めんな!」って思いますよねぇ?
だって、食べれるもん!
いや、食べないですよ。なんか体に悪そうな気がしますし。
「でも食べようと思えばワシはいつでも食べられるんやで!」
「引き金を引こうと思えば、引けるんやでぇぇ」という舐めんな精神を心の中で発揮してしまうタクさんです。
ま、そんな話は置いておいて、
僕らがすぐにやっちゃう勘違い。
「私は足りない」って錯覚はどこからくるんだろうねー。
ってな話をしてみたいと思います。
## 「代償ルール」という幻想
一つ考えられるのは、
「何かを得るには代償が必要」という考え方。
これが「足りない」って錯覚を作ってるんじゃないかなー?って思うんです。
「何かを得るには代償が必要」ってな考えは、あたりまえに広まっているじゃないですか。
でもこれって、何かしらのルールの上でだけ存在するものでしかないんですよね。
全てにおいての普遍の原則ではないんです。
でもこの考え方がまるで普遍の真理であるかのような錯覚があるのかもしれませんね。
「良薬口に苦し」や「働かざる者食うべからず」
みたいなことわざもあったりしますが、別に苦くないけどいい薬だってあるわけですし、ものを食べるのと働くのはそもそも別の話ですもんねぇ。
また、
「苦労してこそ価値がある」
みたいな錯覚もあるかもしれません。
苦労と価値だって別物ですからねー。
つまりこれは、普遍の法則じゃなくて、「思考が勝手に貼りつけたラベル」にすぎないものなんです。
そもそも「価値」というもの自体が絶対的なものではなく相対的なものですからね。
つまりは何かしらの基準ありきの話であって、基準そのものがあるようにみえて、ないものなんです。
## 「私は足りない」が生まれる仕組み
そんないわゆる「代償システム」を真に受けちゃうことで
「自分はまだ不十分なのは努力が足りないからだ」
「努力してないから価値がない」
↓
「だから私は足りない」
みたいなことになったり、
さらにはこういった非二元界隈の話でも
「私にはまだ実感としてこの話がわからない」
「つまり、まだなにか足りない要素があるんだ」
「過去のトラウマを解消できてないからだ!」
「思い込みを捨てるための要素が私に足りないんだ!」
みたいなね。
そんな錯覚が起こってるのかもしれませんねー。
実際には、別に何かの努力も必要なく、ただ朝は来て、食べ物は口に入り、価値あると思ってることは、ときに何の苦労もなく現れます。
雨は降る時に降り、やむ時にやむんです。
そこに「代償」はもともと存在していません。
そして、そんな中で「思考」の中だけでいろんな解釈が起こり続けているんです。