Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私」とは理屈から生まれたイメージである

はじめに

はいどうもー!
タクさんです。

まあぶっちゃけ、
「全ては許されている」だとか、「思考は幻想」だとかね。
さらには、
「私はいない」だとか「時間は存在しない」なんて言われたってわからないですよね?

だって、
ほっぺをつねってみると痛みを感じますもんねぇ。
で、これは誰の痛みなのか?って考えてみると、「私」以外の答えなんてありませんもん。
隣にいる人がその痛みを感じているはずがないですからねぇ。

チョコを食べてその甘みを感じているのは誰か?と言いますと、
それだって「私」のはずです。

朝起きてせっせと外出の準備をしているのも「私」ですし、
準備を整えてから仕事に向かうのだって「私」です。

だって、「私」以外の誰かが代わりに仕事をしてきてくれるわけじゃありませんからねぇ。
パーマンというアニメでコピーロボットというアイテムが登場して、そのコピーロボットは自分に成り代わって学校とかに行ってくれるんですけどね。

そんなコピーロボットに子供の頃はものすごく憧れたものですが、実際にそんなロボットがあるわけじゃありません。

じゃあやっぱり「私」やないか!
「私」が仕事をしなきゃ誰が生活費を稼いできてくれるんじゃいっ!
って思いますもんねー。

ですが同時に、もし「私」がいないのなら、楽なんだろうなー。
とも感じたりしませんか?

だって、あれこれと悩んだり、不安になったりするのもこれまた「私」なわけでして、
そんな「私」がいないのならめちゃくちゃスッキリするような気がしますもんねー。

そして、大の大人やさらにはブッダでさえ「私はいない」ってなことを言ってるんだったら、やっぱり知りたいですもんね。

だって、そんな「私」がいないという楽さをどうにか知りたい!って思いますもんねー。

知りたいのは誰なんじゃ?

だからこそいわゆる「悟り」ってのを知りたい!と思ってあれこれと話を聞いたり本を読んだりってなことになるわけですが、

ま、はっきり言って「わからん!」ですよね。
わからんけど、とても知りたい!
ってなってる方もおられると思います。

ただいかんせん、わかろうとすればするほど「わからん!」ってなるんですよねー。
でもわからないから知りたい!になるわけで、
「もーどうしたらいいのー!」って感じになっちゃったりするんですよね。

ただこれ、誰が知りたがっているんだろう?ってことなんですよ。

よーく思い起こしてみると、そもそも自分が知りたい!って本当に思ったのか?
ってかなり疑わしいんです。

むしろ勝手に誘導された?みたいな感じでね。
本当に私が知りたいっ!となったわけじゃなく、勝手にそういう思いが出てきたんじゃないか?
その後に、理屈でこの思いは私の思いだ!って思い込んでいるだけじゃないのか?
ってねー。

だってそうですよねぇ?
あなたがカレーが好きだとしたなら、それって本当にあなたが好きになったのか?
と言われると疑わしくありませんか?

そもそも何かを好きになるのに意図なんてなかったですよね?
ということは、「私」という存在自体、かなり疑わしいんですよ。

私は理屈から生まれたイメージ

この思いが湧いて出てきたのは確かにそうなんですが、その後に「理屈」でこの思いは「私」のものだ!ってな思いをくっつけているだけ。

実際のところ、その「私」になんの実体性もないんですよね。

というか、そもそもあらゆる全てに実体性もなく、それをコントロールしている者もいないんです。

というわけでしてね。
「私」というのは「理屈」では確かにいるようにしか思えないわけですが、思い自体に何の実体もなく、またその実体のない「私」はなーんにもしてないんですよね。むしろ何も関与してないんです。
ただ、後付けで起こったことに「私」という理屈をくっつけてるだけだったんです。

よくよく観察してみると、そもそも「私」という何かもいませんし、何かが起こるのにその主体者すらいないんです。

 

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