Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ダメな自分という幻想に付き合うのはもったいないよね!

はじめに

はいどうもー!
散歩が趣味のタクさんです。

大体散歩をするのは家の近所になるんですけどね。
家の近所って慣れ親しんだいつも通りの風景になりがちじゃないですか。

これねぇ。
なんかものすごくもったいないと思ってるんですよ。

大体思考ちゃんって、大雑把な区切りで目の前の出来事を区別しがちなんですけどね。
だから、慣れ親しんでいる家の近所の道や最寄りの駅前は、もう飽き飽きした風景として区別してしまったりするんですよね。

この区別に乗っかるのはあまりにも勿体無いんですよねー。

なので、僕は時々散歩中に、自分が海外から始めてアジアの日本という国に来て歩いているんだとしたら、、、。
みたいな設定で歩いてみるんです。

すると、とても独特な街並みにちょっと感動を覚えたりします。

さらには、自分は人間でもなく異星人だとしたらもう、人間自体も不思議ですし、その辺に咲いている雑草もまた不思議すぎて感動ものだったりするんです。

なぜこんな多種多様なよくわからないモノが土から生え茂っているのか??
ネコジャラシと呼ばれるこの雑草は、何を意図してこのような形になっているのか?

もう不思議だらけで興味がつきません。

「うおー!スゲー!ヤベー!」
ってなもんです。

思い起こすに、赤ん坊や小さい頃はこのような目で世界を見ていたんですよねー。
それはそれは、不思議に満ちた世界だったんです。

ですが僕らは、思考の世界観に入り込んでいく過程で、
この奇跡的な世界を「どうでもいいこと」と分類してしまって、
それよりは、
「いい成績を取ること。」
「いい学校に進学すること。」
「いい会社に入り、いい仕事をすること。」
みたいなね。
なんの奇跡的な美しさもなく、むしろ常に脅迫されているかのような世界観にいつの間にやら侵食されてしまって、目の前の奇跡を「当たり前のつまらない風景」だと見逃してしまうに至ってしまったんですよねー。

いやー、勿体無い。勿体無い。

ダメな自分という幻想

そして、そのような判断基準で自分というものを比較の概念にさらけ出し、
自分は良いとか悪いといったような範疇に閉じ込め、
ダメな自分を量産し、そのダメを埋めることに躍起になってしまうんです。

ですが、判断基準自体が幻想みたいなものですので、その幻想をもとにした比較で自分をダメと判断しちゃっているわけでして、そもそもダメな自分なんていうのも幻想から生み出された幻想なんですよねー。

そんなダメな自分という幻想がいわゆる苦悩を生み出し、その苦悩に僕らは苦しむわけです。
これもねぇ、なんか勿体無いなーって思うんですよ。

目の前の奇跡を見逃し、それよりも苦しむことが優先されちゃってるんですからね。
そして、苦しみで頭がいっぱいになっていると、本来の自分の望みや得意なことを封じ込めちゃいますのでね。
なんていうか、自分自身を発揮することにもフタを閉めてしまうことになります。

そりゃー、ツイてない!なんてことにも遭遇しやすくなるわけです。

これも勿体無いですよねー。
だって、楽しみよりも苦しみを優先しちゃってるんですからねー。

楽しい時はその楽しさを味わい、そして楽しかったねー!といった感じで過ぎ去りますよね。
苦しみもその時だけ味わってあとは過ぎ去るにまかせればいいんです。

ついつい僕らは苦しみだけはぎゅっと掴んで何度も味わったりしちゃうんです。

ですのでね、そんな勿体無いことをやめちゃって、もっと自分の喜びの方にシフトしていったら良いんじゃいかなーって思うんです。

 

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