Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私がいない「それ」の状態をキープ出来るのか?

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タクさんは常に私がいない状態をキープしてるんでしょうか?

その場合どんな生活になるんでしょう?

みたいなことを聞かれたりすることがたまにあったりします。

僕自身は普通のおっさんなので、なんでそんな状態をキープしとると思っとるねん??
ってのが、実は素直な感覚なんですが、

いやいや、何も変わらんですよ。
確かに副作用的にある種のこだわりみたいなもんは随分減ったかもしれませんけど。
それとこれとはあまり関係がないですし、
普通に起こることが起こってますし。。。

って答えたりしてます。

多分こういった質問の奥には、
何かしらの気づきや体験があると、今とは違った自分の状態に変化する。

みたいな誤解があるんだと思います。

常に自分という拠り所がないとどうにもならない。
何も始まらない。
といった観念がもう当たり前としてあるので、
その自分がどうなるのか?

みたいな誤解ですね。

いろんなメッセンジャーさん達が様々な自身の物語を話してたりもしますし、
僕にももちろん物語があるわけですけどね。

その物語をたどったからこうなった。
というわけじゃないんですよねー。

とは言うものの、
そんなこと言われても、どうにも掴み所がない話になりますし、
じゃあ、どうすりゃええのん?
ってことになっちゃいますよねー。

あなたはすでに「それそのもの」であるわけですけど、
そうじゃない!という思いがあるのであれば、
その思いこそが「それそのもの」じゃなくしてるだけ。

つまり、自分でそうじゃないと見なしているだけ。
といったことになるんですけどね。

「それそのもの」に至る方法論なんてもんはありません。
なぜならすでにそうだから

というわけですが、
んなこと言われても余計に迷うわ!
ってなるかもしれませんので、
誤解を恐れずに書いちゃうとするならば、

まずは、この思考の存在を見てみないことには始らないと思うんですよね。

よく行われている、思考と距離を取る方法。
目の前の仕事に一心に励む(三昧?)とか、
坐禅をする。とか、
瞑想をする。とか、
起こった思考を一つ一つラベリングして気づいていく。とか、
何日もまずは黙って過ごしてみる。とかとか?

みたいなね。
いろんな修行があるわけですけど、
これらは、思考に気づく方法論な訳です。

別に上記の方法じゃなくても全然良いと思いますが、
まずは「思考」というものを見てみるんです。

あ、そうそう。
よくこういった修行で起こりがちな誤解としては
思考や感情を滅却しなければならんのちゃうか?
みたいな教えがあったりするわけですけど、
んなことは無理ゲーですので、やろうとしてもいつまでたっても達成できません。

ほんの一時くらいならなんとかなるかもしれませんが、
呼吸と似たようなもんで、いずれ勝手にまた思考は起こってきますのでね。

ぼくは単に見るだけで良いとおもっています。

とある思考や感情がトラウマになっている場合は、
その思考がいかにウソか?を見てあげることによって癒されることもあると思います。

そういう場合は有効かもしれませんけど
そうじゃないなら
見てあげるだけで良いと思うんです。

で、
見てあげることができたなら、
思考の存在に気づくことができると思います。

ああ、こんな感じで思考が起こっとるわ。。。
てな具合にね。

 

話は変わりますが、
目の前にバッタがおるとします。

このバッタは、あなた自身ではないですよねぇ?

当たり前じゃ!
って言われそうですけど、、、

このバッタがあなたではない。
という証明は、
あなたが、そのバッタを見とるからですね。

つまり、あなたが主体者であり、客体としてバッタがおるからです。

なので、あなたはバッタではなーい。
となるわけです。

同じく、
思考が起こっとると見ることができる。
ということは、

あなたは、
思考ではなーい!
ということになりますね。

思考や感情もある種の経験であるというわけです。

ペチって叩いたらイタイのと同様に、
匂いを嗅ぐのと同様に、
思考や感情も、起こっている経験なんですよねん。

経験を種類分けしたら、思考とか感情と言った風に分類されるかもしれませんけど、
この分類もせずにいるとすると、何でもない事が起こっとるということになります。

でね。
私というのも起こっとる経験に対して、概念にひっつけとるだけだったりするんですよね。

ペチッと叩いたら、イタイという経験が起こった。

私がイタイ。

バッタがジャンプするところが見えたけど、ジャンプした感覚は起こらなかった。
つまり、バッタは私ではない。

みたいな感じでね。

あ、そうなんか。
経験に何かしらの理由をくっつけとるんかいな。

あ、
この理由がそのまんま、目の前に広がる世界。自分の人生になっとっただけなんかいな。

ってなことなんですよね。

最初っから「私」なんて誰にもどこにもおらんやんか。

てなことでしてね。
もちろん、変わらずに「私」だとしていた経験は起こるわけなんですけどね。

だから、単に見抜くだけだったんですね。

思考が起こらないように修行するとか、瞑想を通して思考に巻き込まれなくなったとか。

そういう自分になったというのと、「それそのもの」とは全くの別モンやんか!
というわけですね。

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