Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

すべては、まじで奇跡。

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全ては奇跡!まるでミラクルー♪

というわけで、
おはようございます。
タクさんです。

ま、このブログでは、
あまりファンタジックなことは書きたくないので、
なるべく避けてはいるのですが、
全ては奇跡というのは、よくよく観察すると、ものすごく当たり前のことでもあるんですよね。

全ては奇跡だというのって、当たり前じゃん!

って、僕は思ってます。

奇跡はファンタジックではなく、
ふわふわキラキラでもなく、
お花畑でもなく、
まぎれもない真実なんですよねー。

というわけで、
今日は、ミラクルゥーについて書いてみたいと思います。

 

まあでも、よくよく考えてみると、
お肉やら野菜やらを細かく砕いて、水を加えて、
体の中に取り込んだら、それがエネルギーに変換されて、
僕らの動力源になっている。

なんていう事実もね。
めちゃくちゃ不思議なことなんですよね。

どう頑張っても、そんなロボット作れませんからね。
なんで、肉が動力源になるねん??腐るやん!
って話ですからねー。



ま、心臓が動いてるのも、爪が伸びるのも、
そもそも、思考が起こるのだって、鼻がかゆくなるのだって、
奇跡以外の何物でもないわけです。

命は誰もコントロールしてないんです。

そして、僕らは次の瞬間、何が起こるのかは一切知りません。
それでいて、あらゆることが表現として起こり続けているわけです。

つまり、すべては未知なんです。

そんな未知の中、ぼくらは既知をでっち上げています。
その既知の中からミラクルは追い出されるわけです。
そして、そのでっち上げられた既知を覆すようなものだけをミラクルと呼ぶわけですが、
目の前のミラクルは、既知の範囲の中に無理やり詰め込まれ、解釈されていますので、
基本的にはほとんどのことをミラクルではないと受け取っているわけなんですよね。

だから、ミラクルは稀なことになってしまっているというわけです。

でも、実際の所、僕らは思考も感情もコントロールしたことはありません。
起こった思考や感情に逆らおうとなんとかコントロールしているフリをしているのが、
「私」という思考の一つの姿なんです。

「私」というのも、他の思考と同じ思考の一部なんですが、
このコントロールしているフリが、他の思考の流れを邪魔したりすることがあります。

そして、流れを堰き止められるとどうしても抵抗感が生じて来て、この抵抗感を不快に感じたりもするんですよね。

わしはこんなことがやりたい!
という思考が出て来たとしても、
そんなのダメ。無理!みたいな考えとして「私」が選択をコントロールしようとすると、
やりたいという思いはそれ以上の発展を阻害されるわけです。
すると、そこで、抵抗感が生じたり、思いが押さえつけられることによって、
奥の方でくすぶったりするわけです。

でも、あらゆる選択の時に起こる思考を注意深く観察してみると、
私という思考はコントロールしている気になっているだけだということが見て取れるかもしれません。
そうなると、
「あー、全部お任せしててよかったんだー!」
ということにも気づいてくるんですよね。

そもそも、誰もコントロールしてないわけですから。

ハンドルから手を離すのにものすごく怖く感じたりもするわけですが、
いざ離してみると、ちゃんと必要な思考が勝手に起こって来ては、誰が判断するでもなく、判断されて、行動が起こります。
これが行動だとか、判断だと認識する機能は残りますが、それは「私」ではなく、
主体者としてコントロールするものは今までもいなかったことに気づくわけです。

すると、既知で覆い隠されていた、未知が姿を表してきてくれます。

一切の景色は変わらないんですが、僕らはそれらを既知というベールで覆い隠していただけだったんです。

そして、この未知こそ、まさにミラクルなんです。
そもそもこの全ては、既知という小さな箱に詰め込められるようなものじゃなかったんですよねん。

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