Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟りと諦め

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悟りとは、諦めのあとにやってくる。
なんてこともね。
あったりするわけですが、

ま、最後の諦めというのは、
「悟りなんて無いから、自分はどこにも到達しないんだ!」
という諦めなのかもしれませんねー。

うん。

無いんですよ。
到達すべき何処かなんて。

でもね。
最初っからもう救われとるんです。

だから、無くても平気だったんです。

でも、無くても平気を知る手がかりとして、
どこにも到達しない自分を知らなきゃならなかったりもするわけですよね〜。

ここはセットになっておりますのでねん。

 

到達できないんだったら
「ちぇっ、どーせ自分なんて、やっぱりダメなままなんじゃないか!」

って、自分を卑下して諦めちゃうと、
そういうことでもないんだけどなー。
という感じもあったりします。

諦めとは、
どういう感じかというと、

自分を過小評価していたことを知るということでもあるんです。

つまりね。
ダメじゃないのにダメだと思っている場合に、
「あんた、そのダメって思っているその思い。単なるイメージやで!!!!
そのイメージの枠でストーリーを展開させとるだけやで!!!」

ということに気づくということですのでね。

もちろん、そのイメージを自分が作ってるわけでもないわけですが、
それは、誰が回すわけでもなく地球が回ってるのと同じようなものであって、
宇宙が成り立っている根本的理由なんて無いのと同様に、
単にイメージが起こってるだけなんですよね。

そこに気づく手がかりになるのが、
「ワシ、、、これでいいのかも。。。」
って、徹底的に許してあげることなんです。

これで良いんだよ〜。をね。
言い換えると、諦め。ということになるんですよね。

つまり、
諦めとは許しと同じなんです。

そして、それは自分を愛でてあげるということにもなるんです。

だって、いわれのないイメージを私としている感覚と同一化しちゃってますからねー。

その同一化で、足りない自分というイメージが有るのなら、その足りないと思っている部分こそが、過小評価されているわけです。

そして、その足りないは、実は持っているということじゃなく、
持っていることに、思っているほどの価値がないといいますか、
持ってないと持っているは、同価値だということなんですよねん。

そのまんまをそのまんまじゃない見方をしている間だけ、足りないストーリーを観せられてた。
ということですからねー。

そこに気づく準備運動として、許してあげるをやってみれば良いんです。

仮に許してあげる。許されていることにしておく。
でも良いんです。

そうして、言葉を置いておいて、今にリラックスしてみるだけです。

あとは、お任せしておけば良いんですよねー。

お任せが板についてくると、
「今まで自分を自分がコントロールしたことなんてなかったやないかーいっ!」
という気付きがツッコミとともに現れてくるかもしれませんよん。

 

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