Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟りの体験もまた幻想ですが、残念がることもありませんねん。

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悟りを自分が手に入れることは出来ません。
なぜなら、悟りは自分というのが観念である、「自分=単なる観念」という見抜きだからなんです。

だから、どこにも持ってくることってできないんですよね。

つまりは、自分は何も変わらないとも言えるわけです。

なので、自分が向上するわけでもなく、
自分がより高潔になるというわけでもないんですよねん。

最初に観念があって、その観念に自分というワッペンをくっつけてる。
ということですのでね。

ただ、ダメだと思ってた自分も、良いと思ってた自分も、
判断でしかないという見抜きはありますので、
良い自分も、ダメという自分もどっちもオッケー!
という許されてるって感じの感覚は、
なんていうか、悟りの体験の副作用のように起こったりはします。
ダメな自分も、どこかで許されてるような感じにはなったりするんです。

ここ、変なんですけどねー。
自分はいないのがわかるのになんで許される自分がおるねん?
って感じでねー。

 

でも、自分はいないを見抜かれながらも、淡々とパーソナリティはあり続けるんですよね。

そして、当然、好きも嫌いも起こりますし、
同時に、これはダメでこれは良い!みたいな判断も起こるわけですが、
ダメとか良いに対するこだわり、執着は減っていくんです。

変な感じですねー。

まあ、そんなことで、自分がダメで、あの人は素晴らしいていうのもありえないんですよねー。

全部しかありませんから、個であるとおもっている自分も全ての要素を兼ね備えてるんです。

素晴らしい人を見て、自分は足りないなぁーと悩むのも見当はずれなら、
人から素晴らしいと賞賛されて、でも自分は実はそんなことないんだよなぁーって、罪悪感を持つ必要もないんですよねん。

悟った人もいなけりゃ、悟ってない人もいないわけです。

まあ、そんなわけで、悟りだったり、「それそのもの」を自分の中に持ち込むことも、自分がそれを掴み取ることもできないわけですが、

変な話、全てであるそれを体験として知ってしまうことはあるわけです。

自分は個ではなく、ここにある全て、それが自分であり、あらゆる人もまた自分であり繋がっている。
みたいな意識に引き込まれるような体験ですね。

その体験の話はまさにそれそのものの描写ではあるわけですが、その描写された体験にこだわりすぎちゃうと、ちょっとややこしいことになったりするわけです。

体験の記憶が自分は悟ったと錯覚させると同時に、
いまだに自分が持っている分離感に失望する。

みたいなねー。そんな変なグルグルに巻き込まれちゃうこともあるわけです。

そういう体験がねー。場合によっては、追い求めていた悟りを手に入れたという事をどうしても手放せなくなっちゃったりもするんですよね。

また、これも場合によってはですが、全てである全体性を見てしまったが故に、分離である自分がやけに際立ってダメなことのように見えてしまうようなこともあったりするんです。

同時に、今まで自分が抑え込んでいた観念も同時にリアル感を伴って浮かび上がってくるような感覚を感じたりするようなこともあるかも知れません。

手に入れた悟りにこだわるあまり、自分の中にある分離感がやけに気になったりするんですねん。

そんな感覚がやけに辛く感じるパターンもあるっぽいです。

せやけどねー。やっぱり自分が何かを手に入れることは出来ないわけでございます。
でもって、特別な何者かになるわけでもないんですよねん。

特別さや価値というのが幻想ですので、その幻想へのこだわりが強ければ強いほどそのこだわりの世界に強く同化するわけでして、そのこだわりが不自由感を強くするわけです。

その「こだわり」が単なるイメージだと見抜かれたときに全体性へと解き放たれるわけですからねん。

見抜きが起こると、幻想もまた全体性だと見抜かれてきます。

もうそのまんまでバッチおっけー!なわけです。

特別さを手に入れなくてももうすでに「それそのもの」なんですね。

それそのものから目をそらさせている「こだわり」を見てあげたら良いんです。
こだわるのも特別さを求めるのも自然な流れですので、その流れも許し愛でてあげるとそのこだわりは力を失っていきます。

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