Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」が明らかになったらなにが変わるのん?

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「それ」が明らかになったらなにが変わるのん?

これ、
もしかしたら気になってる人がおるのかもしれませんけど、
ぶっちゃけなんも変わらんのですよ。

ただ、単に強迫観念の言うことに従わなくても良くなるっちゅうだけです。

なんで変わらなきゃならんのん?
なんで進化が必要なん?

ってなるだけなんです。

そう聞くと、なんかめっちゃ向上心がなくなるように聞こえるかもしれませんが、
そう言うことじゃありません。

面白がって向上してみたいってことには打ち込みますので、やっぱりその辺はなにも変わらないんですが、
向上し続けなきゃならない!っていう脅迫的な観念に従う必要性が感じられなくなるのと、向上とか進化の先に何かがあるっていう幻想も無くなるんですよねん。
つまりは、もうお任せです。
最初っからお任せやった事が明らかになるっちゅうわけです。

っていうか、向上する誰かなんて最初からおらへんやん。そんなん。

ってなるわけです。

誰もどこにも向かってませんからねー。

よく「深刻さが無くなる」って言われてたりしますが、
これも、もっと正確に言いますと、
深刻さだって、脅迫的な観念だって起こることは起こるわけですが、
それも単に起こっては消えていくだけになるんですよね。

ただこれだって、目覚めたから深刻さや観念が起こっては消えていくだけになったのかと言いますと、そうじゃなくて、
目覚め云々関係なしに最初から起こっては消えておったわけです。

最初からそうやった事が改めて明らかになるだけなんですよね。
持ち続ける意味を失うんです。

 

なので、なにも変わらんわけでございます。
ただ、深刻さや観念に支配からは目覚めますので、従う必要性が失われるんです。
その観念には、自分という観念。時間という観念。社会という観念。も含まれるわけです。

とは言っても、時間がないからと言って遅刻魔になるっちゅうことでもないんですけどね。

もちろん、許せんということも、悲しいことも起こるわけです!
ただ、起こるのはその経験だけが起こるわけであって、それをなんとかする誰かはおらんわけなんですけどね。

許せん!からなんとかしよう!と思うなら、それに沿った物語が展開されてきます。
そして、いずれその物語も起こっては消えていきます。

キーッと怒ってはい以上。とするなら、その思いもパーンと舞い上がる花火のように、起こっては消えていきます。

そのいずれもあるがままなんですよねー。

どんなレッテルを貼り付けようとも、
意味のないパーン!が花火のように起こっては消えていくのみなんです。

「あるがまま」に逆らっても、逆らってるが起こってるだけで、
どこに行っても、あるがままっちゅうわけです。

あるがままに任せてみても、
あるがままには任せることができない!とコントロールしようとしても、
結局はどっちも「あるがまま」なんですよねん。

ただ、起こることのダイレクトさが目覚める感じです。
起こることに対するフィルターの不必要さをまざまざと知るんですよねん。
なのでフィルターを通して見てた物語の実体のなさも明らかになっちゃいます。

そのフィルターには実体がないだけでなく、コントロールしようとする誰かも最初っからおらんのですね。

物語が消え失せるというよりは、物語も「それ」そのものであり、その物語の本質は起こっているように見えて何も起こってないっちゅうことなんです。

物語に執着しちゃってる誰かがいるわけじゃないんですよね。
どうみてもそのように見えるで!と思ったとしても、それもまたそう見なす働きがあるように見えると同時に、そこに実体がない!みたいなね。

雲があるように見えて、それは単なる無色透明な水蒸気の集まりやった!みたいな感じかも知れませんねー。

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