Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

不安ちゃんと恐怖ちゃん

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不安やら怒りって起こったりしますよねぇ。
そんな不安や怒りって突き詰めていくとその原因って
大体は死の恐怖につながってくると思うんですよね。

共通の恐怖。それが死の恐怖やというわけです。
でも実は、身体的な死の恐怖というよりは、自分の死の方を恐れとるのかもしれませんね。

今日はそんな話を書いてみたいと思います。

 

みーんな死ぬのを怖がってますが、だーれも死んだことは無いわけで、
死んだことがある経験者っておらんのですよね。

つまりわからんわけです。誰も。
そして、そのことが余計に怖いに拍車をかけてるのかもしれませんね。

生死を語るのであれば、まずは誰が死ぬんや?ということと、それ以前に、
誰が生きとるんや?っちゅうことをまずははっきりさせなきゃなりません。

誰が生きとるんや?
と言いますと、まずは、
自分が生きてる。
と思いますよねぇ。

でもじゃあその自分ってなんや?
と言いますと、やっぱり身体や!
ってなると思うんです。

身体が死んだら自分は存在できなくなる。
だから怖いねん!

ってね。

でも、身体ってちょっと不正確ですよね。
これ、常に新陳代謝しとるわけでして、身体という普遍的な個別の個体があるわけじゃありませんのでねぇ。

あらゆるものの組み合わさりと関係性の中で常に変化を繰り返しているのが身体ですし、、、。

変化を死と表現するのであれば、常に死んだり生きたりを繰り返しております。

となると、その変化を失うのが怖いねん!

と思うかもしれません。

でもこの変化って、失われたことはないんですよねー。
連綿と続いておるんです。

ずーっとね。

精子と卵子が結合して、分解して形が常に変化を繰り返して、生活の場が胎内から別の場所に変わり、さらに変化を繰り返して、食べ物を取り入れて結合したり、空気とつながって循環したり〜。

てな具合でね。

身体も全ての変化の中のイチ表現なんですよね。

しかもですよ。
当たり前に、身体が自分や!って思ってたりしてますけど、
じゃあ、いつからその身体は自分やとハッキリと認識しとるねん?
と言いますと、大体は、
んー?2歳か3歳くらい???
ってなったりするんですよねー。

身体というのは、ずっと変化をしてて、その変化の中、
そのある地点を引っ張り出して、それを自分やとしたから、
身体が失われると自分が失われるって思ってるっていうことになりますよねぇ。

でも、それやったら、自分って身体とは違いますやん!別もんですやん!
ってことにもなるんですよね。

となるとですよ。
もし、身体がね。
なくなったとしても、一切自分は失われることはない。
みたいな事が確信できたとしたらどうでしょう?

「うん。それなら怖くないわ」ってなるのかもしれませんね。

でも、そんな確信は持てないですからねー。
やっぱり怖さは残るわけです。

となるとですよ。
よくよく、なにが怖いのか?
っていうのを見てみると、

確信がないから怖いんちゃうんか?
ってことになると思うんです。

確信がないっちゅうことは、わからんっちゅうことですね。
わからんもんが怖いんです。

しかもね。
自分が失われるのが怖いと言いながら、それは身体だったり、
心情だったり、尊厳だったりと色々なわけでして、
結局のところ、自分というのはどこかに確立されているわけでもないんですよね。

そうなりますと、自分っちゅうのは後付けされてそれっぽい理由づけに利用しているだけであって、ホントのところは、
「わからんが怖い」だけがあるだけちゃうんか?
とも思うんですよね。

「わからんが怖い」っていうのが単に起こってるだけちゃうんか?
っていう感じ。

それって、もしかしたら、単なる生存本能の信号が起こっとるだけとちゃうん?
これはそういう本能として働いておるっちゅうわけで、

「ハッハーン。おまえ、、、もしかしたら、単なる生理現象みたいなもんやな?」

生理現象ということは、暑いとか寒いとか、
腹減ったとかトイレ行きたいっていうのと同じようなものっちゅうわけですね。

そんな風に見抜かれちゃうと、アタフタするような大げさなもんやなかったことが明らかになるかも知れませんねぇ。

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