Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

すでにそれだからどうしようもない。

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欠けてるっておもてたコレがもう完璧やん!
すでに本質的なそれそのものですしね。
ってことなんですよね。

なので実際はもう探す必要すら無いわけなんです。

一見めっちゃ足りないように見えるじゃないですか。
お腹が減ったら食いもんが足りてないと思いますし、
喉が渇いたら飲みもんが足りてないと思いますしねぇ。

でも、実はそれも「それそのもの」の中でそう起こっとるだけなんですよね。
足りないと思って探し回ってても、すでにそれがもう「それ」やと言うわけなんです。

 

「それ」やとはまだ思えへんわぁ〜って思いも、
「完璧」やとは思えへんわぁ〜って言う思いもね。

「それそのもの」の中でそういう思いを単にみてるだけなんですね。

「それそのもの」からはどうやっても逃れようが無く、
そんななかで、足りないという思いを見てようが、
どこに答えがあるんだ?と探し回っていようが、
すでに「それ」なんです。

足りないわぁーを見てるなら、そういう景色が見えるでしょうし、
この足りないを許せれば良いんやな!と思えば、そういう思いを見てるだけってことになります。
じゃあ、どうしたら良いんだ??って思ってるなら、どうしたら良いんだー!っていう思いを単に見てるっていうことになりますし、
それなら手放せば良いんだな!っと思えば、その「手放そう!」を単に見てるだけってことになります。
起こってることを単に見てる鑑賞者になれば良いってことなのか?
と思えば、そういう思いを単に見てるってことになりますし、
よし、鑑賞者の意識になれたぞ!そうか。確かに単に見えてるだけだ。
起こってるだけだったんだ!と気づいたなら、そういった気づきを単に見てるだけってことになります。

ありゃま。。。
じゃあ、もう
どうやっても、どうしようもないんじゃーん!
降参するしか無いんじゃーん。

では、降参してみるか。。。
ってなったとしても、
特定の思いを諦めようと努力しようとするなら、
そういったシーンを単に見てるだけってことになりますし、
思考が起こるたび、足りない思いが起こるたびに、
そう言った思考が起こり、その後に降参しようとする思いが起こるだけ。
ってことになるんですね。

と、いうわけで、
どこにも行きようが無いんですよねー。
だって、すでに「ここ」ですのでね。

でね。
どこにも行きようが無いということは、
行為者がいないってことにもなるわけなんですね。

だって、行為者がいるのならどっかに行きようが有るはずですもんねぇ。
そうじゃなきゃ行為者とは言えませんし、、、。

ありゃま。行為者すらおらんのかいな。
自分が何かしてるんやと思てたけど、
どうにもしようもなくて、
さらにはどうにかしたことすら、なかったんかいなー。

ってことやったんですねー。

だからといって、じゃあ何もしないぞ!と
「何もしない」をやっても仕方がないわけなんですけど、、。

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