Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ホントにね。そのまんまでいいんです。

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ほーんとにね、そのまんまでいいんですよ。

感情に巻き込まれてて、分離の中にいて、
思考が渦巻いてて、
それがそのまんまなんです。
それでいいんです。

でも、こういう時に、なんか違うなぁ〜。って思っちゃったりしますよねぇ。
このなんか違うなぁ〜。ってのだけが違うんです。

一回そのまんま、その感情とか思考が渦巻いているのを許してあげてみたら良いかもしれません。


なんか重たい感情があるのだとすれば、その感情をそのまま、
「ま、おってええよ。ゆっくりしていき~。」
って言ってあげる感じです。


私が消えるとか、全てが愛であることが明らかになる。
とか、
そういったキラキラな話は置いておいたらいいと思うんです。

どうしても非二元の話とかを聞いちゃうと、
それがなんか1つの理論みたいになっちゃうじゃないですか?

分離があって、私があって、
その私が、思考や感情に巻き込まれてて、
だから、私が消えたら、そういった感情に巻き込まれなくなる。


みたいなね。

この理論を間に受けなくていいんです。

私がいないフリをするようなことでもなくて、
そのまんまでいいんです。

私がいるように思ってる。
そして、何かしら辛い。
だから、そうじゃないどこかに「それ」があるんじゃないだろうか?
って思ってしまう。

何かしらの辛さが、これじゃない!なんか違う!って思いを想起させて、
なんか違うからどこかを探そうとする。

これが探求なわけですが、
分離があって、怒りや苛立ちがあって、
それでも、それでいいんです。
そのまんまにしておいてみるんです。

すると、その瞬間、
あー、この許せなさが苦として出てきてたわけで、
起こってくることとは関係ないんやね。
そして、許せなさは、どうしてあるかというと、架空の私という概念上に存在する
「ワタシ」を守ろうとしておったんやね!ってことが見えてくるかもしれません。

非二元の話をいくら知識の中に溜め込んでも意味はないんですよね。
一旦聞いて、なるほどと思ったり、なんか感じることがあったなら、
もう、知識の方は忘れてしまっていいと思います。

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