Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

パラドックスの連続とプロセス

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「それ」の話ってね、パラドックスの連続なんですよねー。

何にもしないで良いって言ったりしてますけど、
本当に何にもしないのなら、何にもならないわけですし。

というわけで、いろんな本とか先生の話とか、
瞑想してみたり、ワークをしてみたりするわけじゃないですか。

そやって探求は起こるわけです。

最初は「それ」ってーのは、どういうものやらわからないわけですが、

徐々に、色々と体験したり、なるほどと思うことがあったり、
知識として、非二元のことがわかってきたりして、

じゃあ、このままもっと体験したり、知識を吸収したりしていけば良いのか?
ってなってくるじゃないですか。

でも、その先には、なーんにもなくてですね。


探究ってのが分かってきたら、
その探求自体を見る。
なーんにもしないで、ただ見てみる。

見てみると、こう言った体験やら知識みたいなものの先にはないんや!
これらの体験や知識を追いかける探求そのものが今じゃないどこかをみてるってことなんだー!
みたいなことに気づいたりします。

見るのが板についてきたら、
もうなんでも見れることに気づいてくる。

私だと思っていた体や感情や心も見ることができる。

ほほー!
確かに自分はいない。
私とは、この鑑賞者やったんやー!

全ては確かに、ただ起こっている。
言われてたことってそういう事かー!

みたいなことが明らかになってきて、
随分楽になってくるんですけど、

そのうち、「鑑賞者の自分」と「普段のいわゆる思考や感情まみれの自分」を行き来するようになってきたりしてね。。。

すると、どこかで、覚者ってな人は、
ずっとこの静かな、どんなものにも干渉されない完全な鑑賞者であり続ける人なんやなかろうか?
自分も結構板についてきたけど、やっぱりまだまだ思考や感情に巻き込まれたりすることがあるなぁ。
って思ったりしてね。

徐々にこれが、完全な鑑賞者に移行していくんだろうけど、
どうすればより完全に移行できるんだろう??

なんて思ったりしてね。

そしてそのうち、

ん?
誰やねん!鑑賞者て!

あ!

・・・

なんもない。
あるがあるだけや!
当たり前やん!
最初っからそうで、「それ」はどこにも行ってなかったんやん。

みたいなことに気づく。

ってね。


そうやって書いてると、なにかそういったプロセスがあるように見えてしまいますが、
じゃあ、そのプロセスがあるのか?って言いますと、
やっぱりそういうものってのも無いよねーってなってくるんです。


自分っていう観念を採用している間だけ、プロセスがあるように見えてるだけでね。


これは、赤いサングラスをかけている間だけ、世界が赤く見えてるってのと同じ感じです。

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