一瞥体験と「それ」とは違うものですねん。
とかね。
そう聞くと、一瞥体験は無意味なんやー!って思ったりしてね、
でもじゃあ、なんでこの体験のことをあの覚者は語っておるんや?
みたいに思って見たり、
スピリチュアルなワークが「それ」に導く道でも無ければ、
何かしらの修行によって「それ」を得るものでもなく、
なんてね。
そういう風に聞くと、じゃあなぜあのスピリチュアルなリーダーさんは
瞑想とかワークとかを推奨してるんだ?
どっちが正しいんだ??
っておもってみたり、
なーんもないんですとか言うくせに、
ただ見てみたら良いんです。
そのまんまにリラックスしたらええんです。
とか言ってみたりと、
僕も含めて、いろんな人がいろんなことを言うもんですから、
もう何が正解なんやー!
てね。
思いますよねぇ。
判断ってのもひとつのレッテルにすぎず、
ホントのところは全部しかないし、全部があるわけなんですけどね。
判断という分離が土台にあると、どうしても正解が導き出せないんですよね。
なーんにも起こってないんですよ~。
と、全てはただ起こっているだけ~。
ってのが矛盾なく在るんです。
どうしても、分離と言う概念が土台にあると、
イエスなのかノーなのか?
どちらが正しいのか?
っていうように思っちゃったりしますけど、。
非二元ってい言われてたり、ワンネスって言われている所以は、
分離がないということなので、
イエスでもノーでもないし、イエスでもノーでもある。
みたいなことになっちゃうんですよね。
これが、なーんもないし、全部ある。
みたいな表現になるわけです。
イエスかノーか?
ここで書かれている事はあの人の言ってることと矛盾するぞ!
あとで調べてみなきゃ!
みたいなね。
そういった、思考のおしゃべりの波にさらわれそうになったとしたら、
思考ちゃんってのは、イエスかノーか?
このどちらかを突き詰めて、判断する機能であって、
その機能が働いておるんだなー。
くらいに、ただ見守りながら、その機能はその機能として好きにやらせてあげたらいいんですよね。
判断というクセに巻き込まれちゃうと、答えってどこまで行っても見つからないので、
探究の旅は終わらないんです。
こういうのって、言葉では説明しきれないんですよね。
説明できないというのは、それほど難しいことなんだ!
ということじゃなく、
シンプルすぎて言葉にすらならないって方が近いんですね。
言葉は何かしらを明確にする。
表か裏かをどちらかに決める。
みたいな役割があるからですね。
それ以上にシンプルなんですよね。
なので、考えて答えを導かなくてもよかったんです。
わからんまんまでもう「それ」なんです。