Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては「それそのもの」である

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目の前のコーヒーは「それそのもの」であり、
あらゆる感情も「それそのもの」。
思考だって心だって、身体だって、「それそのもの」。
そのまんまの「それそのもの」しかなくて、そこに分離はありません。

そんなものを分離して整理しなくても、ちゃんと全ては完璧に機能してます。
監視して、チェックしてコントロールしなければならない必要はどこにもないんです。

現象に見える何かも、見かけで起こっているように見えてるだけで、
やっぱりそこに分離はなく「それそのもの」しかないんです。

頭に浮かぶ、あらゆる答えをを却下してみてください。
これはこういうことだろうか?といった予想は全て却下です。

正解でも間違いでもなく、ただ却下してみるんです。
吟味せずに却下してみるんです。

心の奥にある自分の本当にやりたいことを見つけて、
それを選択し生きていくということでもなく、
そんなコントロール主体はいなくて、
何かが起こっているように見えて、何にも起こってません。

なにも起こっていないを信じて採用する必要はありません。
何かを選択し、採用するのではなく、全てを却下してみるんです。

ここで書かれていることも、
誰かえらい聖者さんが言ったようなことを採用してみることもせず、
全てのアイデア、答えを却下してみて、
あらゆる答えがなくなり、つかみどころがないところになにも掴もうとせずにそのまんまにある時、
つかまないでも在る。ただ在る「それそのもの」を自身で確かめてみる。

するととどこかに答えがあるなんてことはあり得ないことが明らかになります。

あらゆる答えを求めるこの働きは、探究の働きです。

この探究の働きが、「ワタシ」なんです。

「ワタシ」とは、自分という中心点をもち、そこから答えを求める衝動であり働きです。
ついつい「ワタシ」というと、主語や名詞的ななにかを想像してしまいがちですが、
ここで言っている「ワタシ」とは動詞なんです。

この働きは、「足りない」という信念で出来ています。
この「足りない」が何かしらの答えを探し求めるのです。

さて、探し求めるといっても、その動きや働きに実体があるわけではありません。

それらは、あたかもあるように見えている夢のようなものです。

あらゆる答えを却下してみるというのは、
その答えを正しいとか間違いとかと判断することではなく、
判断にすら通さないということです。

すると、答えを求める探究のエネルギーは行き場を失うんです。
このとき、隠れていたそのままの探究のエネルギーを感じることが出来ます。

すると、この探究のエネルギーはただ、あるように見えていただけだったことが分かります。
なので、探究のエネルギーから湧き出しているように見えていた、思考や感情も無かったことが判明するんです。
ただ、あるような見かけとして表れていただけだったんです。

なにを、なにもないところで、答えをだしてみたり却下してみたりしてるんだ?
アホみたいじゃないか!ってのが明らかになります(笑)。

この見かけとしてあらわれるあらゆることは、なくなることはありません。
ですが、それが見かけであることは見抜かれるんです。

中心もなく、ただダイレクトさが何にもないところに在るだけなんです。

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