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非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あらゆるメソッドは通用しないのはなぜ?問題について

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いわゆる悟りや「それ」については、あらゆるメソッドは、通用しません。
どんなメソッドの先にも「それ」に到達する何かがあるわけじゃないんですよね
ってことを、僕も言ってますし、いろんな人もいってると思います。

にもかかわらず、座禅があったり、瞑想があったりしますよね。
メソッドはないと言ってる人も、あらゆるメソッドぽいものを紹介してたりするもんです。
で、僕だってメソッドというほどわけじゃないけど、そのまんまにしてみることをオススメしてたりします。

この辺、もしかしたら混乱の原因になってる方もおられるかもしれないので、
よくあるメソッドと、そのメソッドはどこまで通用するのか?について今日は書いていきたいと思います。

さて、よくあるメソッドの中で、いわゆる悟りに関するものについてあげてみましょう。

よくあるのは、
瞑想
マントラを唱えるやつ
座禅
体の感覚だけを感じてみるやつ
思考が起こるたびにチェックするやつ
滝に打たれる
自分を癒していく
鑑賞者の意識にとどまる

すいません。つい面倒くさくなって、ものすごくざっくりしてますが、
この辺りがよくあるやつでしょうか?

ほんと種類を挙げるときりがなくて、
瞑想一つとっても、ちょっとググってみたらお分かりの通り、
ほんと様々な種類がありますよね。
でも、どれもそんなに変わりはなく、基本的には、ただ座るだけというのが基本です。
座禅も一緒です。
これらの目的は、ま、乱暴に簡単に言うと、
体の感覚や思考、感情に常に翻弄されてしまう自分に何もしないを慣れさせる行為。
みたいなことですかね。
思考、感情、感覚から、一歩下がって距離をとってみるという行為ですね。

マントラ瞑想というのもあります。
マントラを唱え続けるというものでなんですが、これは意味のない言葉を唱え続けることによって、
その意味のなさに没頭していき意味のない状態に落ち着いてみるといった試みです。

まあ、これも無思考状態に自分を追い込んでみるといった試みですね。

身体の感覚だけに集中してみるやつとか、思考が起こるたびにチェックしてみるやつとかも、
同様に、思考に巻き込まれない自分、ただ、それに気づいている自分になろうとする試みです。

滝に打たれるってのも同様ですね。

あ、もちろんすんごく強引に端折ってますけどね。
個別のメソッドの説明何かを見てみると、伝統ある手法だとか、
聖なるマスターババジ直伝だとか、
釈迦が実践した方法だとか、
聖なるインドのマスターだけがやっていたとか、
ホントに、いろんな説明がなされているんですけどね。

ま、こういった権威づけとか説明はがっつりスルーしていいと思います。
権威になんの力もなけりゃ、なんの効力もないですし、
ただのコンセプト、概念でしかないからですね。

自分を癒すのも、鑑賞者の意識に留まるというのも、
思考や感情から距離をとるという試みですね。

さて、あらゆるメソッドは、大体、思考や感情、感覚から距離をとる。
もしくは許し受け入れることにより、その思いを解放する。

これらが目的になっていると言えるかと思います。

カルマの解放もその一環ですね。

一見、理に適っているように見えますよね。
これらのメソッドで、確かに思考や感情から解放され、
自分というなにかも消えた状態になることがあります。

僕自身もそういった体験を何度も経験したことがあります。

この体験を悟りだとしている人もいたりしますし、
これを小悟とよぶひともいれば、
この悟りの後に悟後の修行が必要だという人もいたりしますが、

この悟りの定義がどうであれ、これらの体験は「それ」とは全く関係がないんですよね。

メソッドの末に到達する状態というのは、状態であるがゆえにまたその状態も去っていきます。

どんなことも固定して持ち込むことはできないんです。
手に入れることも出来ません。

そして、来ては去っていくものは、ぜーんぶ二元の世界のものです。
また何かの状態を経験するためには
何かの中心点、立ち位置が必要です。
その状態を掴んでいる「ワタシ」が必要なんです。

このワタシとは、探究のエネルギーと同様のモノです。

なのでこのワタシがいるということは、探究があるという事なんです。
見かけ上、その状態になっているときだけ、探究が終わったと感じるかもしれません。

でも、その場合の探究が終わった感じは「それ」とは全然違う、ひとつの経験なんです。

また、メソッドにこだわってしまうとずっと思考などを消そうとすることに終始してしまうことになります。
なので、その状態が去った後も、探究者さんはメソッドにいそしむんです。

たしかに、気づきといわれている状態を体験するにはメソッドは役立ちます。
でも、気づき、鑑賞者の意識といわれているのも、二元の世界であり、それではないんです。

なので、大きな思考との同一化があるときは、
それとちょっと離れてみる訓練としてメソッドを試してみるのは良いと思います。

ですが、そういった試みと「それ」とは全く関係がない事を知っておくと良いと思います。

「それ」とは、「ワタシ」という中心点、
そんなものなんて無いという、ただの見抜きです。

思考も感情も、どんなことも起こりえますが、
それを体験する誰かはいなくて、それを行為する誰かもいない。

ただ、見かけ上でだけ、それが起こっているように見えている。
ということの見抜きです。

「それ」を思考だと見たときだけ、思考が起こっているように見え、
「それ」を目の前のコーヒーだと見たときだけ、コーヒーがあると見え、
「それ」が身体の感覚だと経験したときだけ、身体の感覚があるように見えていますが、
どのように見えても、「それ」そのものなんです。
そして、「それ」しかなく、「それ」が全部であり、分離もないんです。

あるのは、それそのものだけで、
その経験を体験する「ワタシ」もおらず、
ただ単に、それそのものが在るだけなんです。

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