Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟りの体験と、十円を拾った体験は完全なる同価値である

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すべての体験は、来ては去っていきます。
そして、その体験に注意を向けている時だけ、その体験を経験しているわけです。

これって、きっと反論の余地がないというか、
ホント当たり前のことだと思うんですよね。

で、僕がこのブログでゆーてることも、この当たり前のことなんです。

なので、スピリチュアルなことでも、悟りといったような大げさなものでもなく、
ホント当たり前のことなんです。

すべての体験というのは、例外なくきては去っていきますし、
そこには優劣はないんです。

この優劣をつけている自分も一つの体験でしかないんです。

例えば、すごーい開放的な、
もうすべては一つでしかない!とはっきりわかるような体験をしたとしても、
それはやはり来ては去っていきますし、

ちょっとラーメンでも食べよーかいな。
みたいな体験でも、その思考が現れただけですし、
めっちゃ幽霊が見えた!みたいな体験があったとしたら、
その体験が経験されたということで、また去っていきます。

すべての体験は固定されることなく、来ては去っていくわけです。
例外なくね。

記憶を思い出しているというのも、体験です。

この前のものすごい開放感って、やっぱり悟りの体験だったんじゃないだろうか?
と思い起こしたのだとしたら、
その記憶を呼び起こすという体験が、今経験されているわけです。

なんか、今日はすっごく自分の中の悪いものが溢れ出しているような気がする。
どうにも不安感が拭えない。

と感じているのであれば、それが体験として経験されています。

この不安感を消したい!どうすればいいのか?
と言う感覚が現れていたとすれば、
その感覚が、今、経験されていて、

足の小指がちょっと痛い。
と、感じたのであれば、
その感覚が、体験として経験されているんです。

このあらゆる体験を経験して、
ああ、なんで自分ばっかりこんな目にあうんやろう?
何が悪いんやろう?
と感じたとしたら、
その感覚も、今体験されているわけです。

そのあらゆる体験に、優劣はありません。

そして、その体験が本当であることでもなければ、
この体験が嘘だということもありません。

うわっ!今、確かにUFOを見たぞ!
という体験があったのなら、
その体験があったということですし、

そのことを友達に話したとして、
その友達に
「カーッカッカッカ!嘘オツー」
と言われたのだとしたら、
その友人には、
こいつどーにかなって幻覚でも見たらしい。
と言う認識が体験として経験されて、

UFOを確かに見た!
と言う人には、
「全然信じてもらえへんやーん!くやしー!」
と言う体験が経験されたということです。

どんな体験であろうと、
そこにあるのは、
ただのダイレクトな経験だけなんです。

ダイレクトな経験というのは、
あらゆるレッテル付けのない、純粋な感覚だけだということです。

この純粋な感覚に注意を向けている時だけ、
それを経験しているっていだけなんです。

このあらゆる体験に、「ワタシがいる」と言う概念がつけ加わることによって、
このワタシが、どうにか、それらの体験を固定化しようと試みます。

なんか、ワタシと言ったような、器みたいなものがあって、
その中に、あらゆる体験や経験が詰め込まれていて、
その器がワタシである。
みたいな、概念です。

この体験の記憶があるから、いつでもそこから
好きな体験を記憶として取り出せるような錯覚を持っていたりもします。

でも、5分後に自分がどんなことを思い出すのか?
明日は、朝、こういうことを思い出すだろう。
みたいなことはわからないんです。

この好きに取り出せるというのも錯覚でしかなく、
あらゆる体験は、何にもコントロールされることなく、

ただ、起こっては消えていくんです。

注意を向けている間だけは、そこにリアリティがあるように
見えますが、そこに実体はなく、コントロールしている誰かもいない。

実体がないので、どこかで線引きされるような区分けもなく、
ただ、在るが在るだけなんです。

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