Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

現象の中に真理があるわけでもなく、現象自体がすでに真理だった

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現象の中に何かしらの真理が隠されているわけじゃなくてね。
現象が真理そのものだったんです。

な、、、何を言っているんだ?

って思われる方もおられるかもしれませんね。

例えば、
ワッフルを食べた時に口の中に広がる甘み。
それが、もう真理そのものですし、
常に起こってる呼吸。
それも真理そのものですし、
頭のかゆみも真理そのものですし、
イラっとする感覚も真理そのものですし、
舞い落ちる木の葉も真理そのものなんです。

目の前の取るに足りない現象が探し求めていた真理そのものなんです。

真理以外の何物でもないんですよね。

じゃあ、何が幻想やねん?

っていう話なんですけど、
これは口の中に広がる甘みだ!
という思考。

それが、幻想!

というわけではなく、

イラっとくる感情!

それが、幻想!

というわけでもなくてですね。

この真理そのものを体験している私がいる。
っていう概念。

これが幻想なんです。

思考も感情も甘みもかゆみも、
全て真理そのものなんですよねん。

そして、思考も感情も誰のものでもないんです。

なので、瞑想とかをせっせとして、
思考や感情から距離を置こう。
といった試みは、「それそのもの」に到達する術ではないんですよね。

単純に、なんか悟りたい!っていう思いが起こってるんです。
悟りとは全く関係なくね。

僕も一時期、それなりに長い間、瞑想とか修行っぽいことをしてたことがあるんですけどね。
そして、光に包まれる感覚を体験したり、それこそ、思考とか感情とか、
そんなもんがごっそりと落ちる体験をしたり、
身体をエネルギーが駆け抜けるっ!みたいな体験をしたことがあるんですけどね。

これらも、かゆみや甘みと同じ、ただの感覚の一つなんですね。

そして、それを体験しているワタシっていうのは、どこにもおらんのです。

そういう体験をして、ワクワクしていたり、
嫌なことを言われてイライラしていたり、
悲しんだり、怒ったり、

こういった体験もね、体験として起こっているわけですが、
その体験の所有者だけがいないんですよね。

僕らは最初っから、何にもしてなかったんです。

何にもしてない中で、何にもしないようにしようという見かけの体験が現れてたりします。

あらゆる体験。
あらゆる現象は意味なく現れていますが、
あたかも意味があるような形で起こっています。

そこで、その意味である解釈を無理くり引っ剥がして、
解釈に支配されないようにしようとしたとしても、
それもまた、ただそのような体験が起こっているんですよね。

そして、その体験も真理そのものなわけなんです。

つまり、現象に真理じゃないものなんてないわけであって、
真理を探そうとすること自体がナンセンスなんですよね。

走っていて転んだら、痛いです。
ここには厳然とした痛みがあります。

ジンジンします。

たしかに、ジンジンした痛みがある。

そして、痛みに対するぶつけようのない怒りが出てくるかもしれません。

その怒りの感情も確かにある。

でも、そういった感覚や感情を感じている誰か?
それはどう探してもいないんです。

鏡を見ると、そこに写っている顔がある。

でも、その顔の持ち主ってのは、どこにも写っていません。

あらゆる現象にはそれを体験する体験者みたいなものがいる。
みたいな概念。
それが分離です。
でも、どこを探してもこの分離っていうのは見つからないんです。
本来はないのに、分離してるっていう感覚だけがあるんです。

この感覚が幻想なんです。

それだけが無いんです。

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