Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自我自身が自我を落とすことが出来ないとは、どーゆーこと?

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おはようございます。
タクさんです。
今日はいただきました質問に答えてみたいと思います。

質問:
スピ本を師としてきた私にとって、それぞれの本の内容は
必ずしも合致していず、目覚め経験のない私にとっては
疑問が残るばかりでした。
今後タクさんにそれを質問していきたいと
思っているのですが、よろしいでしょうか?
カルマを開放した先に「それ」があるので
カルマ解消をやってきたのですが


>、自我自身が自我を落とす事はできません。
とありますが、「許す」ではなく「赦す」
ことで解消することができると「奇跡講座」本にあります。
これについてはどうお考えでしょうか?


また、
>、自我自身が自我を落とす事はできません。
この根拠を教えていただけますか?

ご質問いただきましてありがとうございます。

さて、自我についてですが、
この自我とは、いろんな側面があるのですが、基本的には、あらゆる物事を整理、分類し、判断したうえで理解する働き、そこに伴うレッテル(名前)付け。
といった側面が基本的なものです。そしてその動きを自分だと思っているものも含めて自我なんですね。
この中には意識的なものも無意識的なものも含まれています。
さて、物事を整理、分類、判断するうえで、どうしてもそこに優劣といった概念が生まれます。
そこで、~べき、~べきじゃない。といったようなチェック機能が働いてたり、その~すべきに沿わない自分について罪悪感を抱いていたり、さらには、他人の~すべきではないに対して怒りを抱いていたり、とさまざまな複雑な動きをしていたりします。
カルマと呼ばれているものも人によって意味づけは違ってくるのかもしれませんが、
「カルマを解消しましょう」とか言われているカルマといったものは、
判断をするがゆえに表れる抑圧が、抑圧されたエネルギーとして心の奥にしまい込まれたモノ。みたいなものだと僕は思っています。
これらは、不安や怒り、いら立ちや反発心、罪悪感。みたいな、
いわゆる、イヤーな感覚として現れます。
判断によって生まれる、~べき、~べきじゃない。
この~べきじゃないを抑え込んだときに生まれる抑圧されたエネルギーのことです。
抑圧されたエネルギーというのは、抑え込むから反発が生じている。といった感じです。

これを人は、心の奥にしまい込んでいるんですよね。

これは、自分はこういうことをすべきではない。と言ったような思いが、ホントはしたかったことを抑え込んだ記憶。
また、キーっ!って腹が立ったようなことがあったけど、
おっと、ココでは怒るべきではない!と抑え込んだ記憶。

みたいなものです。

さて、ご質問についてです。

>、自我自身が自我を落とす事はできません。
とありますが、「許す」ではなく「赦す」
ことで解消することができると「奇跡講座」本にあります。

許すのではなく赦す。この許すと赦すの厳密な違いはちょっとわからないのですが、
自我の中の抑圧されたエネルギー。
これらが現れたときに「苦」が生じるんですが、これは抑え込もうとしたときに出てくる反発したエネルギーが「苦」であると僕は感じています。

嫌な感情そのものが「苦」なのではなく、
そういった感情があることを、なんとかなくそうとする動きが「苦」であるという意味です。

なので、ここで抑え込もうとしない事が大事になってきます。
元々は判断は存在しません。正しいも間違いもないんです。
自我ちゃんの働きが勝手に、想像上の世界で、あれだ、これだ、
あれは良し!あれはダメ!としているだけなんです。
判断されたことにより、生まれているのがこの反発心なのです。

この判断があることによって、なんかイヤーものや感情が現れてくると、
それをどうにか無いモノにしなきゃいけない!
と自我が判断し抑え込もうとして、
そして反発心が生まれているわけなんですね。
なので、それをそのままにしておくといいと思います。
ここでややこしいのは、「自分が許そう(赦そう)としてしまうこと」なんです。
これだと、このカルマがあるのはいかん事だ!
だから、消さなければならない!
そのためには赦すことだ!
とやってしまう事(行為してしまう)なんですね。

それだと、また、判断と判断に伴う考え(思考)に巻き込まれていることになってしまっているんですね。
なので、そのままにしておくと良いと思います。
そのままにしておくとは、ただ、起こっていることを観ることです。
抑え込もうというエネルギーが起こっていることも含めて、ただ、観ることなんです。
消そうとせず、原因を探ろうとせず、そのままに、ただ観てみるんです。

それが、しっかりと見られると、ただその感情が起こっている事に気づきます。
意味なく起こっています。ただ単に、意味なく起こっていることが経験されている。
それが気づきの意識です。

そうなると、誰かが赦すのではなく、ただ赦されていくんです。

この気づきの意識はまだ分離が残っている状態なのですが、そのうち、その気づきも消えるとき、流動するそれそのものが残るんです。
(※この辺りのことは、また記事で書いていきたいと思います。)

次のご質問です
>、自我自身が自我を落とす事はできません。
この根拠を教えていただけますか?

自我さんとは、前に書いた通り、分類、理解、判断、そこから伴う新たなレッテル(名前付け)、そしてそこで生じる抑圧されたエネルギー。
これらの働きを「自分(ワタシ)」であると思っている事です。
そしてひとまとめに、なんとなーく概念化されているんですね。

なので、自我はどこ?自分はどこ?どの部分?と探してみても見つからないんです。

これはある種のエネルギーとしての働きなんですね。

それを自分だと思っていることが、いわゆる同一化なのですが、
ここに同一化した状態で、何かをしようとすると、その働きをただ活性化させているだけとなります。

自我を落とそうとする。
というのも、何かをしようとする働きのひとつとなります。

なので、「自分が」自我を落とそうとすること自体が自我の働きとなりますので、
自我が自我を落とすことが出来ないという事になるんです。

以上、質問にお答えさせていただきましたが、
この書かれたことを理解し、吸収し、自分のモノとしようとする動き自体も自我の働きになってしまうという、どうしようもないジレンマがあります。

なので、わっかんねー。と、もし、お思いになられましたら、ひとつその「わからない」に浸ってみると良いと思います。

そこに浸って、何かを分かろう!理解しようとしている衝動。
それが自我のエネルギーなんだ。
何にもないところで、何かを理解し分離させようとしているんだ。
と気づいてみることをおススメします。

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