ふぁぁぁぁ。
おはよーございます。
タクさんです。
今日も眠い日々を過ごしておりますが、
皆様はどんな眠たいライフをエンジョイされておられますでしょうか?
僕はというと、なんか最近はどうにも、大好きなダラダラを勤しむ時間が取れませんで、
なかなかダラダラできない日々を送っております。
仕方がないので、仕事中デスクにいるときはなるべくダラダラを心がけております。
さて、ここでも、ストーリーだの観念だの言っておりますが、
これは、「真実である」もしくは、「真実かもしれない」と自分自身で腑に落ちているもの。
つまりは、受け入れているものなんですね。
この「真実」あるいは「真実かもしれない」というのがある種のストーリーであり観念なんですね。
それを受け入れている間だけ、それを真実として見るわけです。
ただ、ホントはこの「真実」はそう見ているだけであって、真実ではないんですよねぇ。
例えば、
雨はうっとうしいモノだ!
仕事はダルい!
っていう観念があったとして、
この観念は、ある人には、真実としか思えないものであっても、
あたらしい傘を買って、雨を心待ちにしてる人からすれば、それは真実じゃないですし、
仕事が面白くてたまらない!なーんて人だって沢山いるわけですからねー。
もちろんそういう人にとっても真実ではないわけです。
そして、
そもそも、この観念は、頭の中のイメージですからね。
イメージは真実にはなり得ないんですよね。
んなことができるとしちゃうなら、
ドラえもんでいうと、「もしもボックス」をみんなが連発しまくりなカオスな世界になっちゃいます。
でも、みーんながいろんなものを真実として握りしめてるので、
多少、カオスな世界になっちゃってるとも言えますけどね。
ま、敢えていうならどこかに真実があるってわけでもなく、
イメージが真実として捉えられているという事が起こっているだけでございます。
真実があると思うから、イメージを真実としちゃうとも言えるかもしれませんねぇ。
まあ、とはいってもイメージですのでねー。
イメージは好きなものを選べばいいんです。
で実際にそれなりに選べるんですよね。
おー!それなりに選べるんやー!ってことが分かると結構人生は楽になります。
ただねー。
強烈に習慣化しちゃってたり、過去の出来事に記憶が大きく影響されちゃってたりすると、
イメージをイメージとして認識することすらできなくなっちゃってるんですよねん。
つまり、真実として疑いもなく掴んでる。ってことになるんです。
僕ね。以前、「ブライミーデザイン」っていうデザイン事務所を作ってたことがあったんですね。
ブライミー!っていうのはちょっとした驚きを意味するスラングなんですが、なんとなく語感が気に入ったのでそれを商号にしてたんです。
するとねぇ。
お客さんが僕のことを、「ブライミーさん」。
って呼ぶんですよ。
最初はねぇ。
「うわぁぁぁあああ!あの社長さん!
僕のことを「ブライミーさん」とか呼んでるぅぅぅ。」
「ブライミーって僕が勝手に作った名前やのにぃぃぃ。
なんか、真顔で「ブライミーさん」とか言ってるぅぅぅ。」
うっしっしっし!
ってね。
ほくそ笑んだたりしてたんですけど、
そのうち、もう無意識に、
「ブライミーさん」って呼ばれると、
普通に
「はい。」
とか返事するようになってたんですよねー。
ま、これもまた、習慣化のひとつなんでしょうね。
そしてねぇ、
過去の出来事。それが自己防衛本能を大きく刺激するようなモノだったりすると、
もうがっつり真実として握りしめられていますので、
これをイメージとして認識するには、この記憶と対峙しなきゃならなかったりします。
もちろん、イメージなので、殴りかかってくる心配はないんですが、当初はこの記憶を「真実」としていますので、イメージなんだー!とは簡単には行かず、結構、根気のいる作業が必要になってくるかもしれません。
ま、この辺の話しはまたにするとして、
このイメージの中の、
いわゆるマイナスイメージをプラスイメージに変換していくというメソッドとしては、いろんな方法があると思うんです。
それはそれで、ガンガン試して楽しんでやったらいいと思うんですね。
僕も
「より楽しく!よりオモロク!やってけばええねーん」
が、常々思っておるモットーでもございますのでねー。
ただ、そうやってオモロクしていくのは、非二元とは関係なかったりするんです。
僕もね。
出来ることは「見る」ことくらいしかないですー。って言ってたりしますが、厳密に言うと「見る」ことの奥に非二元だとか目覚めがあるっていう事でも無かったりするので、この辺りは言葉で説明できないジレンマに悶絶しておったりもするわけです。
まあ、簡単に言っちゃいますと、見ることによって見ることの必要性すらない事、もう既にすべて許されておるということを単に知るって話なんです。
これを知ったら、全てを許せる人間になるというわけではなく、
あいつハラタツわぁー。って思いも今まで通りガンガン起こります。
そして、それで、許されてるんです。
さてさて、
観念はそれなりに選択できますよー。ってはことを書きましたが、
選択しようとするには、これが観念なんだときづかなきゃ行けませんよねー。
そのためのメソッドはさっき書いたように色々とあるわけですが、
一応これらのメソッドはマイナスをプラスに転換していこうぜーっていう前提があるわけですね。
でももし、この観念の中に、
「自分という観念」「時間という観念」「生と死という観念」も含まれるということを知ったとき、
もうここには、変換したものを受け取る主体もいないわけです。
そして、
これはマイナスの観念。
これはプラスの観念。
なんていうのも、これまた観念でしかなく、
そして、世界は観念で出来ていると同時に
観念に頼らなくても、もう、全ては完全に機能してるんだーということにも気づかれちゃうんですねー。
すると、
悪い観念を良い観念に変えなきゃいけないというわけでもなく、
良いも悪いもなくどっちも素晴らしいよねーってなるんです。
だからといって、ナーンもしないということでもなく、
何かを変えないわけでもなく、
色々と変えたくなるし、
変えたきゃ変えればいいし、
そうならなくても大丈夫だよーんっていうことが許されるんですねー。
でね。
全ては自分を許してあげちゃえば良いんじゃん。
そして、許せない理由なんてぜーんぶ嘘っぱちジャーンってことも知るんです。
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