Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あなたは確実に「それ」を知っている

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悟りの探求をしている時って、やっぱり「それ」とか「悟り」とかが、
なんかすごい事!のように期待してたりすると思うんですよねー。
で、探求中に現れるちょっとした「安心」体験!なんかがとっても自分を癒してくれたりして。
で、さらに求めちゃう!みたいなねー。

この「安心」体験みたいなもんが、いわゆる一瞥体験として現れる場合もよくあります。
長く探求を続けてたりすると、やっと自分にも現れてくれた!とうれしく思ったりもするでしょう。
ただ、これも単なる物語上に起こっては消えていくものと同様なので、しばらくするとその全体感も失われていきます。

すると、なんとかもう一度この体験を。。。となり、さらに体験を繰り返していくと、この一瞥体験をなんども繰り返したらいずれは大悟できるのか???

なーんて思っちゃったりするわけですが、それもまたマインドちゃんの物語なわけです。

でもって、大悟したすごい誰かがどこかにいるわけでもなく、何か特別な「悟り」がどこかにあるわけじゃなく、

もうすでに目の前に「ありのままのそれ」があるわけなんです。

でねー。
そう感じられないとするなら、
それは「そう感じられない」という思考が単に起こっているだけということになるんですよねー。

その思考の奥には、まだ何かを掴んで無いという思いがあって、さらにその奥には、この今の自分の状態は、何かが足りないという思いがあるわけでしてねー。

 

つまり「ありのまま」では完璧ではないっていう思いがね。
起こっとるわけです。

そこでありのままを否定しているから、その否定してるぶんだけ、ありのままを見逃しているということになってるんですよね。

でもこれもまた、単にイメージ上の事であって、僕らは誰一人としてありのままから逃れられてないんです。

自我ちゃんもマインドも思考もカルマも、、、。
ぜーんぶイメージ上のものですので、実際に在るものじゃありませんからねー。

滅却しようとしても出来ませんし、追いやることも出来ません。

ただ、単なるイメージやし居てもええやん!ってなると、
別段気にならなくなってきます。

気にならなくなると、それはもう無いも同然って事になるんですよね。

そうなったとしても、ふつうに思考に巻き込まれることも起こってきますが、
「ぬわー!カルマがまだ襲ってくるぅぅぅ!」って大騒ぎせんでもええがな!
ってなるわけです。

もちろん巻き込まれてる間は大騒ぎするわけですが、それもそれでええわけですね。

ああ、単に起こって消えていくわ。

って感じです。

何も変わらないわけですが、「そのまんまでええやーん」って安心してるだけって感じかもしれません。

ただ、ちゃんと危機は避けようとしますし、怖いことは怖がりますし、
だるい時はちゃんとダルがるわけです。

何者かになるというのとはちょっと違うんですよねーん。

意識を何かに焦点を合わせて掴み取らんでええんです。
焦点を合わす事によって、合っているものと、その他に分離するんですねー。

で、それをやめたら分離はなくなるっちゅうわけです。

なんで誰でも「それ」を知ってるくせに、「それ」を探求するのか?
と言いますと、

「それ」自体があまりに無色透明で、一見ものすごくオモロなさそうに見えるからなんですよね。

特徴ないわぁー。お前。。。

って感じで、真っ先に探求候補から外れてしもてるんですよね。

探求が始まると同時に唯一、探していた「それ」だけが、その候補から外れるんです。

だからどこを探しても見つからないんですよねー。

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