Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

目の前の世界。

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そこに目を向けてみれば、
いろいろな経験が起こっとると思うんです。

道を走る車の音。
目の前のモニターの光。
コップから漂うコーヒーの香り。
転がるペットボトルのフタ。
お尻に感じる椅子の感触。
さっき食べたカレーの後味。。。

ってねー。
あらゆる経験が起こっとるんやと思うんですけど、

その経験って何やねん?っていうのを
思考を通さずに見てみるってことなんですねー。

すると何でもないし、何にもないけど、
在る。わけなんです。

 

僕らは瞬時に、これはコップ!この匂いはコーヒー!
って判断します。

そして、その判断を掴み取るんですよね。

掴み取るというのは、ホンモノやと信じる。って感じかもしれませんねー。
これはコップであるということを瞬時に判断し、その判断を信じるわけです。

ホントはね、コップじゃないんですよ。
コップやと習ったからそう判断してるだけでね。

もし、コップなんて文化のない人が見たら、
ナンジャコリャー!ってなると思うんですよね。

赤ちゃんにコップを持たしたら、
すぐに中のコーヒーをぶちまけながら、ペタペタと手触りを確認すると思います。

もちろんね。
コップをコップとして扱わないって話じゃないんですよね。

ただ、こう言った判断や思考っていうのはただの道具である。
ということなんです。

もちろん思考というツールは色々と役にたちますが、
その思考を信じ込んで思考の中に入り込む必要は特にないんですよねー。

この道具の中に入り込むと
この道具の中だけが世界であるように勘違いしちゃうんです。

世界とは知覚され、判断されたモノである。

てな具合にねー。

そうなると、知れば知るほど世界は広がるように感じるわけです。
もちろん知覚の中に入り込んでしまっていると、
知ってることが広がれば、世界が広がるように感じると思うんです。

でも、その反面、見逃すことも多くなるんですよね。
そして、いつしか矛盾に突き当たったりするわけです。

そうなると、自分の立ち位置を決めていかなきゃいけなくなるんですよねー。

で、この立ち位置が自分のアイデンティティーになっていくわけです。

そして、この自分の考えによって作られたアイデンティティーに合わないものは、
自分を破壊する敵のように見えてきたりもするわけでしてね。

もちろん、そこまで強固なアイデンティティーを全ての人が形成するわけじゃなくて
ほとんどはある程度の柔軟性があるわけですけど、
自分に対しての不信感が強ければ強いほど、恐怖感は増していきますし、
アイデンティティーを強化してなんとか恐怖に対応しようとしちゃうわけです。

強固になればなるほど、そのまんまの世界では具合が悪い!
変えていかねばならぬ!っていう思いが強くなりますのでね。
そうなってくると、そのまんまの目の前の世界とのケンカになるわけですね。

受け入れるなんてまかりならーん!ってね〜。

目の前の世界への赦しっていうのは、自分への赦しであるわけです。
恐怖感があるとするなら、どこかに弱い自分があるんですね。

じゃあ、その弱い自分を許してあげてみるといいかもしれません。

もし、それが受け入れられたら、目の前の世界とのケンカの必要性も消え失せるわけです。
ケンカがないという事は
あるがままを受け入れてるってことになりますのでねー。

単にあるがままに在る。というわけです。

ただ、勘違いしないで欲しいのは、
何かを我慢するとかそういうことじゃないんです。

我慢ならーん!なら、我慢しても我慢しなくてもどっちでも良いってことなんです。
そのどっちも許せるならそこに残るのは自由さなんですよねん。

まだまだ、私には不安も起こるし、不満もおこるわぁ〜。
って思ってるのなら、

ええやん。それで!

ってことなんですよね。
開き直るでもなく
そんな自分を許してあげられたら、いいですね〜。

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