Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

それとか、これとか、もうええから、もっと具体的に説明してよ!

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それっていうのは、なんで具体化できへんねーん。
って思われるかもしれません。
それとか、これとかじゃなく、もっと分かりやすく言ってちょうだいよー。
ってね〜、思うじゃないですか。
もったいぶるのやめなさいよ!
ってねー。

でも、具体化っていうのは、実体のないものを仮定の世界の中で実体化しておるようなものなんですよね。

実体ってのが無いんです。
実体があるとするなら、何かが固定されてなきゃいけなくなるんですけど、
全てが常に変化してるわけですから、それに対して固定化された実体として捉えようとしてることこそが、変なんですよね。

なのになぜか、全てのものには、分離があり、
分離された個々のものには、具体的な何かしらの実体がある。
っていう仮定の想定で話を進めようとするので、
これ、とか、それ。
って言われると、???
って感じに感じちゃうんです。

何にもないっていうのは、そういう分離とか、個々の実体なんてもんは無いんですよー。
ってことなんですねー。

全てだけがあるんです。
変化を繰り返しながらね。

この繰り返される変化が、生命そのものなんです。
僕らが、奥の方でずっと昔から感じ取っている言葉にもならない生きてる感じ。
これが全てである生命感です。
これは、身体からくるものじゃないんです。
身体が生命を作ってるんじゃなくて、生命感の方が身体を作ってる。
というか、生命感そのものが、身体として表れたり、風として表れたり、
ペットボトルのフタとして表れたり、タンスの隙間のホコリとして表れたりしとるんです。

 

なので、あるのは、この生命感のみであって、それそのものだけがある。
っていうことなんです。

そんな中で何かを固定化し、実体として捉えることによって何かを理解しようとしてるエネルギーもあるわけです。
このエネルギーは、理解することによって安心したいと願っていて、探求を続けるわけです。そのエネルギーが、探求のエネルギーとして起こるわけですが、このエネルギーも、実体は無いんですよね。

なので、それとは何か?について名付けることは出来ないんです。
悟りと言っても、愛と言ってもいいですが、そのどちらも幻想の概念でしかありません。

なので、わからんままで、何も掴まないまま、掴みたがるエネルギーを見てあげるだけで良いんです。
見られると、探求のエネルギーは行き場を失い消えていきます。
探求のエネルギーの中にあるあらゆる概念も行き場を失っていきます。
それらが、ぜーんぶ消えてそこに残るものが「それ」なんです。

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