Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ありのままと、虚無主義について

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なーんもない。とか、全ては幻想だとっていうのを、頭で理解してね。
だってなんもないんだしー。
とか、
これだって幻想なんだしー。

みたいにね、
起こってることを、何もない、幻想だと解釈しちゃうっていうのは、
たんなる虚無主義なんですよね。

何もないっていうのは、理解すべきことはない、
もっというと、全てはありのままにすでにあって、
そのなかで、理解っていうのが起こってるだけってことなので、
何もないっていうのをわざわざ一つの概念として引っ張り出してきて、
それを理解して、判断という土俵にのっけてしまうっていうのは、
何もないじゃなくて、「何もない」を概念として一つの考えとして
あるものにしてしもてる。

ってなことになってきましてね。

この何もないを判断の土壌にあげて、「何もない」とは何か?
みたいなことを追求し出すと、虚無主義のようになってしまうんです。

これだと、結局、理解の範疇、判断や概念の中に迷い込んでいる状況のまま、
その中で、何もないを採用しているだけ。
って事になりますので、
結局のところ、「何もない」っていう物語にペッタリと貼りついちゃってるだけ。

みたいになっちゃうんですよねん。

また、
何もないから、何もしない。

みたいなこととも全然違うんですよね。

何もないから、何もしない。
だと、
何もないっていうのに、ある種の意味づけをしてしまってるんです。

そして、その意味に引っ張られて、何もしないになってしもてる。

これも、何もない物語をやってるだけになってまうんですねー。

意味なんて最初っからなかったし、
必要すらないんですやんっ!

ってなってると、
「何もない」から何もしない。とはならずに、
単に何もしてないときもあれば、何かしてるときもある。
それだけー。

って感じなんですね。
意味は不要ですのでね。

なーんもない中で起こる衝動に、身を任せてダンスするのがありのままで、

なーんもないを頭の中で理解して、起こる衝動を抑え込みつつ何にもないように振る舞うのが虚無主義。

って感じなんですね。

より良くなろうとしなくてもよく、より良くなってもいい!
この完全な自由さが、完全に許されるっ!
って感じなんです。

 

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