諸行無常っていうのは、自然の摂理を説いた言葉って、言えるかもしれませんねー。
なんて思うんです。
たまにね。
平家物語の冒頭の
祇園精舎の鐘の音〜、諸行無常の響きあり〜。
なんて歌からくる印象で、
驕れる者久しからず。
みたいな格言的な?
ちょっと哀しげな?
そんな意味に取られたり、
無常と、情のない、無情が同じ響きなので、
それと混同されたりして、
変に意味付けされてたりもするのですが、
諸行とは、全てのこと。
無常とは、常では無い、つまり変化しているって意味でしかないんですよね。
まさに、川の流れ、空に浮かぶ雲と同じような意味なんです。
さて、僕らが名付けているあらゆるモノについても、
名付けることによって固定化されているように見えますが、
固定化されたモノなんで一つもないんですよねー。
風は、ビューって吹いて風になりますし、
水はサラサラサラーと流れて水となります。
火はゴウゴウと炎を立てて火となり、
僕らの心だって、アッチコッチにユラユラして、心となります。
つまり、この動きこそがそれそのものであって、動きなので、固定化して捉えられないんです。
固定化されるようなものじゃないことを、名付けて固定された一つのモノや現象として便宜上捉えているわけなんですが、
それが便宜上を超えて、何やらリアリティを付け加えられたりするんですよね。
固定化されて、その固定化されたものがリアルにあるように感じるようになっていくっていう感じですかね。
身体という固定化されたものがあるように感じ、この体は自分の身体である。
っていうのが、リアリティとして感じるんですね。
本当は、流れの中の動きなんですが、それが自分の身体。
また、他人の身体。
といったように区別したりねー。
固定化されたものに対して、その所有者、行為者っていう概念も付け加えられていくんですよね。
でもあるのは、その変化だけですねー。
それはまさに万華鏡のようなかんじですね!
全ては全てであり、その全部が変幻自在に動きながら、
素敵なありようを紡ぎ出し続ける。
時間のない中で、起こることは起こりつづけ、
そして例外なく消えていく。
作り出される模様は素晴らしく、
それでいて、一切の意味もなく、
その世界を見ていると思っていた自分も、
この万華鏡の一部だったわけで、
それが明らかになると、
あるのは、常に変化する美しい模様があるだけで、
一切の意味がないから、何もないがあるだけとなる。
みったいなねー。
ええ感じに書きたいけど、無理っすわぁー
オショーみたいに詩的な表現ってカッコええんですけどねー。
そんな才能はどうも皆無っぽいので、
下手な表現で、今後も書いていったろうかいっておもいます。
じゃ、まった明日ー。
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