Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

概念が概念だと明らかになるとき

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おはようございます!
タクさんです。

今日はいただいた質問にお答えさせていただきます。

質問ココから

おはようございます。いつもありがとうございます。

今日の記事を読んで、気になっていた9/27の記事を思い出しました。

>一個だけ選択できることがあるんですよね。
それは、概念を採用するかしないか?
という事です。
単純にそのまんまでいるか、概念の中に入り込んでいくか?
この選択はできるんですよね。
行為者はいないくせにね。

これだけはできるというならやりたいけど、どうしたらいいかわからない、と途方に暮れていました。
もし、もう少し詳しく教えて頂けたらとても嬉しいです。

質問ココまで

 

質問ありがとうございます。

私とか、行為する誰かがいないのに、
なんで、選択ができるんじゃー!
そもそも、選択なんてないって言ってたやんかぁー!

とかね。

静寂を味わったりしても、それも物語に過ぎない。

とか言ってるくせに、
静寂ってそもそも、概念を採用してないっていうこととちゃうのんかー?

って、思われるかもしれませんね。

さて、
あらゆる思考も、何かしらのレッテルが貼られた感情も、全ては概念でしかありません。
その概念を採用すると、物語が始まります。
概念を採用しないでいると、何にもない中でただリラックスしているということになります。
ホントはリラックスしている誰かってのもいないので、
何にもないが在る。
ってだけになります。

非常にシンプルなことなので、
そこに言葉でもって説明をしちゃうと、
その説明によって、シンプルさが失われてしまうんですよね。

だから、本当にシンプルなことは言葉では説明できないんです。

言葉は何かを固定し、指し示すための道具ですが、
シンプルが極まってくると、何にも固定されないし、
そのまんまでしかなく、
そのまんまに説明を加えられると、そのまんまじゃなくなるんです。

完全に透明で、何色でもない水を、色でもって説明しようとする。

みたいなことなんですよね。

だから、言葉の定義を追い求めるよりは、自分で確かめてみた方が良いと思うんです。
焦らず、気長にやればいいんじゃないかなって思います。

さて、概念を採用しないようにしたらいい。
って言葉で聞くと簡単なような、でもよくわからない。
難しいように感じますね。
難しいのは自分が何かをしようとしているからだったりするんです。


なので、まずは、この採用しないっていう概念ってなんじゃ?
ということを見てみます。

概念ってのは、物語の定義のようなものですね。
オママゴトのルールのようなものです。

それらは、思考や感情、感覚のようなものです。

なので、まず、思考や感情、感覚を見てみるんです。

僕らは普段、思考や感情、そして身体の感覚のことなどを自分だと無意識に概念付けていたりしています。

それを、ホントにそうなのか?
って見てみるんです。

ホントにそうなのか?を観察するには、ただただ見てみる。
観照してみることをオススメしています。


ただただ見てみる。

単純に見てみましょう。
というのではなく、わざわざ「ただただ」とつけているのは、
見ているものに、レッテルを貼らずに見る。

見るじゃなくて観る。

みたいなニュアンスを加えるために、「ただただ」とつけています。

普段、何かを見ると、すぐさまそれに対して、判断やレッテルを自動的に貼ってしまう。
というクセを自我は持っています。
そして、すぐに物語に発展させてたりします。

ビューんとした風が顔に当たると、
おお、風が顔に当たった

今日は風が強いなぁ

もしかしたら、台風が近づいとるのかもしれんなぁ。

見たいな具合にです。

この辺は思考のおしゃべりの類になるのですが、
そういったおしゃべりも一旦おいておいて、単純に感覚だけを見てみるんです。

すると、本当にあるのは、生の感覚
風のようなものが当たった感じだけしかないことが明らかになってくると思うんです。

それ以外は全部概念でしかないわけですよね。

思考の連想、レッテルづけは自動的に起こります。
これが自我の働きだからなんですが、
この自我は別に自分ではないわけで、
これも何かしらの思考が起こっているだけ。という具合です。

この思考の元には、何かしらの感情が眠っているのかもしれません。
それは喜びの感情だったり、不安の感情だったり、

それもただただ見てみると、
喜びとか不安というより以前に、
何かしらの感覚。
ふわっと開く感覚のようなものだったり、
つっかえた感じだったり、

そういった感覚が感じられるかもしれません。

こういった、本来在るモノ。
そして、レッテルづけや感情、思考として起こっているもの。

ただただ見てみるっていうのが極まってくると、
これらが明らかになってくるんです。

明らかになってさらに明らかになって、ってね。
僕の場合はしつこく明らかになっていったんですけど、

そうなると、「ワタシはいない」ってな言葉についても、

ワタシって、いないとか、いなくなるとかじゃなく、
ただ、最初っからいないんじゃん。

本来あるモノの中にはワタシというものは最初っから無いわけだし~。
って明らかになってくるんですけど、

それでいて、何かが変わるわけでもないよね~。

ってのも明らかになってきます。

オープンシークレットってやつですね。

わかってくるというよりは、明らかになってくる。
といったニュアンスです。

最初からそうであって、どこかではそのことは知っていた。
当たり前すぎて見過ごしていただけだった。
といったニュアンスです。
何かが新たにわかるのではなく、明らかになるんですよね。

さて、概念を採用しない。
っていうのは、この明らかになっていることが前提になってきます。

概念が概念だと明らかになっているという事です。

明らかになっていながらも、普通に自分事として何でも起こりますし、
自分事として何でもやってても、それらは、なんにもないなかでただ起こっているという事が明らかなんです。
自分事として、怖がったり嫌がったり、何ら変わりなく起こります。
そして、自分(ワタシ)がいないことも明らかなんです。

自分を慰めるために嫌なことや怖いことを鎮めようとすることはできませんが、そういう事があることを許されていることは明らかになるんです。

そうなると、あらゆる条件付け。
これは条件付けに過ぎないと分かりながら、その条件付けの中に入っていけますし、条件付けに従わなくても良くなります。

この条件付けは嘘だから絶対に従わない!
みたいなことにはならないんですよね。
全ては条件付けでしかなく、社会はこの条件付けの中で生まれた幻想だから、わしゃー俗世間を捨てて霞を食って生きていくんじゃー。
みたいにはならんのです。
やっても良いけど、これが絶対だー!
みたいなこととも違うんですよね。

条件付け、起こっていることに入り込んでてもよし。
明らかな中にリラックスしても良し。

ということなんです。

と、いうわけで、何かしらの不自由感があるのであれば、それは何なんだ?
ってところを見てみたら良いと思います。

「これだけはできるというならやりたいけど、どうしたらいいかわからない」

っていう思いは、もしかしたら何らかの感情から自由になりたいといった思いがあるからかもしれません。

その何かになりたい、何者かになりたい。
っていう思いって何なんだ?って見てみるんです。

あぶりだすコツとしては、
「どうにもならないよ!」
っていう問いかけです。

どうにもならないだって??
それは困る―!

って騒ぎ出す感覚、衝動。

これが自我さんの衝動です。

この衝動を、何にも加えず、ただ見てみるんです。

どんな感覚を感じるのか?
身体のどこかにその感覚が感じられたりするのか?
みたいなのを、他人事のように見てみるんです。

もし、それを見ることが出来るのだとしたら、見ているのはだれ???
ってことになってきます。

この辺はまた書いていきたいと思いますが、前にも多分どこかで書いた気がします。


・・・

探してみました。
多分この記事あたりでも触れてました。参考にしてみてください。

 

takuteto.hatenablog.com

 

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