Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探求のエサと探求のジレンマ

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さて、昨日の記事の続きになるんですけどね。

よく、嫌な感情とか、不安や怒り。
こういった自我と呼ばれるような感覚はワタシという概念を採用しているから。

この自我。
つまり「ワタシが消える」とそれらから自由になる。

というような非二元のメッセージを聞いちゃうとね。

やっぱりどうしても、自分がそうなるみたいな感覚で受け止められたりしちゃうわけなんですよね。

そういうメッセージをゆうとる人は、
もう、そういった自我的な感覚からは自由になっとるんだろうなぁ。

自分も早くそうなりたいなぁ。

みたいな受け止め方ですね。

で、一方で、

ワタシはいないとか、
何にもないんです。
みたいなこと言いながら、金儲けしとるやんけ!

どういうことや??

怒りは自我の幻想です。
とか言いながら、
怒っとるやんけー。

あいつ!ニセモノやないのか?
悟ってないんじゃないのか?

みたいな疑問が湧いたりしてね。

何れにしても、
自分がどうにかなるんじゃなかろうか?
っといった感覚を持ってして、
何かを聞いたり、納得したりしても、
探求は終わらないんですよね。

はたまた、一瞥体験みたいに呼ばれている、
何にもない体験を自分がして見たりね。

それもこれも、やっぱり自分がまだどこかにあるんですよね。

自分がある限りは分離のゲームはいつまでたっても終わらないんですよね。

「それそのもの」ってのは、
自分が発見するんじゃなくて、
「それそのもの」がもう全部であって、分離もないですから、
発見しようがないんですよね。

でね、

悟りってのもね。
便宜上そう呼ばれてたりしますけど、
ホントは悟りという何かなんてないんですよ。

ワタシいないってのも、誰かが消えるわけじゃないんですよね。

最初っからおらんのです。
どこにも。

でね、
それに気づいた自分ってのもおらんのです。

この辺がジレンマになってたりするんですよね。

だからね。
嫌な感情から自由になった自分ってのを手に入れることなんて不可能なんです。

自分ってのも分離の概念から生まれた一つの概念でね。

概念は概念をドンドン生み出します。

怒りとか、不安とか、
そういうのも、自分とは関係なく、
自分じゃないものとして、
ただ、起こっとるようにみえとるだけなんです。
ホログラムみたいにね。

怒りも不安も名付けられた一つのレッテルに過ぎなくて、
起こってくる感情は喜びも悲しみも幸せも不安も、
区別なんてものも本来はないんですよね。

何もかもはまさに諸行無常って感じで、
常に起こりまくっています。
それでいて何にも起こっとらんのです。

起こってるということが、もう充満しつくすと、
起こってる、起こってない。みたいな判断もどこかに消え失せます。

どうやっても二元の言葉では表現できないものなんです。

本来は一元である全ての中で、二元の区別遊びをやってるようなものなんです。

だからね。
怒りとか感情とかもね。
それを抑えようとしたりするよりはね。
そのまんまにしておけない感覚の方を見てやれば良いんです。

この、そのまんまにしておけない感覚がね、
次から次へと、何かしらの解決策を作り続けててね。
内とか外にその解決を試みようと自動運転しとるわけです。

あずかり知らぬところで勝手にね。

それをただ見て見たら良いんです。

自分を自己修正するような感覚で見るんじゃなくてね、
単純に、そういう働きがそういう働きとして動いておる。
ってね。

何かを修正するわけじゃなく、
そのまんまに見てみれば良いんです。

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