Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

杞憂みたいなもん

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杞憂(きゆう)という言葉は、余計な心配みたいな意味です。

昔、中国の人が、
「いつか空が落ちてくるんとちゃうやろか?」
と毎日心配しまくってたのが由来となっとるそうです。

空って上の方にあるように思いますよね。
でも、自分が立ってる大地も空の一部であり、
自分という中心点があるから、上とか下があるように感じたりしますが、
自分の下の大地の裏っかわにも、空という空間はあるわけですからね。

ま、皆さんご存知の通り、空が落ちてくるわけはないんです。

余計な心配なんですよね。

この杞憂という言葉で表される余計な心配ってのはね。
作られた概念を現実として見た上で、
その概念の中で心配するのにも
似ているのかもしれませんね。

こういった心配事が起こるのも、
分離という概念があって、その概念が、ワタシという概念を作り出して、
また、ワタシという概念が、ワタシ以外という概念を作り出して、
それで、ワタシに降りかかる様々な問題を作り出して、、、

と繰り返してね。

概念が概念を生み、心配事を作り出し、
その解決策を思考が作り出し、
その解決策が、うまくいったり、いかなかったりとしておるわけです。

分離から生まれる、自分という中心点が、
上に広がる空と下に広がる大地。
みたいな概念を作り出したりしてね。

色々と物語が起こってくるわけなんですよね。

でも、
分離という概念がなけりゃ、中心点もなくなるんですよね。

無いのは、ワタシだけなんですけど、
もっと厳密にいうと、
この中心点を原点に考えるというクセというか、
思考のシステムと言いますかね。

そのウソさが明らかになるだけなんですよね。

ウソとかいうと、なんか誤りのように聞こえるかもしれませんが、
思考のというのは、そういう働きだというだけのことなんですけどね。

そういうシステムの上で思考が起こってるわけですが、
それが悪いというわけじゃなく、

ただ、テレビというシステムに映像が映ってるだけであって、
そこに、何かしらの深い意味があるわけじゃ無いんですよね。

水が蒸発して、雲になって雨を降らせる。

みたいなのと同様にね。

意味なりシステムなり、仕組みなり、
そういうことを考え出すと、キリがないわけなんですけど、

結局のところ、そういった意味を一旦置いておくと、
ただ、全てがあるだけであって、

その全ては、自分も含めた全てなので、
もう、分離という概念が意味を失い、
全てしかないので、全てという概念も意味を失い、

ただ、「これ」だけがのこるんです、

あれでもそれでもいいですが、
全ては「これ」なんです。

「これ」っていう何かがあるわけじゃなく、
あなたに聞こえてる音、感覚、感触が「これ」なんです。

レッテル付けて、何かだと思ったりしてますが、
何でもない「これ」なんです。

何かしらの概念やレッテルを付け加えた時だけ、それはその概念に沿って現れているように見えてるんですよね。

空に浮かぶ雲を雲というレッテル付けした時だけ、雲が空を浮いています。

どのように見えようが、
全てはこれでこれしかありません。

空という概念付けされたものもなければ、雲という概念付けされたものもありません。

私とあなたも概念で付けされた何かです。

だからと言って空のようにみえるなにかも、
雲のようにみえるなにかもそのまんまにあります。

だから、なーんにも変わらないです。
現実はこの概念付けられたものに固定されて、
まさに空と雲があるように見えていますが、
それは概念上の物語なんです。
だからといって、その素材はなんら変わらなくなもないそれとして存在しています。

名もないそれを受け入れられるというのは、何かを限定しないということです。
限定せず、分離せず、そのまんまです。

何かを限定する必要がないので、心の重りが解放されるわけであって、
それを解放と呼んでるだけなんですが、
誰かの心が解放されるというわけじゃなく、
心の重りに支配される誰かが最初っからいないことが、
単純に明らかになるだけなんですよね。

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