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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

そのまんまにみるの解説

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ネコと話すときは、若干声のトーンが高いというウワサのタクさんです。
お早うございます。

さて、このブログではよく、
「そのまんまに見て見たらいいんですよ」
みたいな事を書いていますが、
今日はその辺のことをちょっと詳しめに書いてみたいと思います。

いわゆる自我ちゃんっていうのはね、分離という概念の中でだけ存在できます。
ま、厳密にいうと、分離じたいが概念なので、自我ちゃんも実際に存在してるってわけじゃないんですけどね。
でね、
自我ちゃんは分離の中で、自分と何かの関係性の中で生まれるんですよね。

ネコと話すときに声のトーンが高くなるのも、一つの関係性ですね。

ちなみに、僕は母親と話すときは、声のトーンが低いらしいですが、
これも、よく喋る関西人母親をもつ関西人息子の一種の照れ隠しあるあるな訳ですが、
自分だと思っている自分も、関わる人によって、色々と変わるわけですね。

そして、一人でいる時も、自分という何かとそれを見ている何か?
といったような関係性が表れていたりします。

さらには、思考とその思考の中に現れる自分と何か?
はたまた、感情とその感情を受け止める自分。

みたいな関係性も、心の中で作り出していてたりしてるんですよね。

この関係性みたいな概念っていうのは、当然のことながら、
分離という概念がなきゃ存在し得ませんので、
分離がないと、関係性も消え失せます。

あらゆるレッテル付けも関係性があってこそ成り立つものです。

また、自分という概念も、
ある時は心のことを自分とみなしていたり、
重たい感情に苦しめられる自分といったように、
心とは別のところにいる自分とみなしていたり、
身体を自分とみなしているかと思えば、
身体をコントロールする身体の支配者としての自分。
つまり、身体とは別のところにいる自分とみなしていたりしています。

心が自分だとしたら、心に苦しめられる自分とというのはおかしいですし、
身体が自分だとしたら、身体をコントロールする自分というのもちょっとおかしいんです。

ですが、時と場合によって、自分という概念も巧みに書き換えてるわけなんですね。

なので、どんな時でも自分は何処かにある。中心には自分がある。
みたいな感覚を持ってたりするんです。

さて、
そのまんまに見てみる。
に話を戻して見たいと思います。

そのまんまに見てみるってのは、
自分というものが、単なる概念であるということへの見抜きを促すわけですが、
とはいっても、そういった意図をもって、そのまんまに見てやろう!
とすると、どうにも上手くいかないものなんですね。

だから、なーんの意図も持たず、
ホントに当たり前のものを、そのまんまに見てみるだけでいいんです。

思考は幻想である。
とか、
全ては実は何も起こっていない。
みたいな前提条件もとっぱらって、
ただただ、普通に、
そして、注意深く見てみるんです。

いくら思考が幻想だとか、世界はホログラムだとか言われても、
実際には思考がありますし、目の前には景色が広がってますし、
身体には感覚があるわけですからね。

なので、まずは身近な感覚を見て見たらいいと思います。

足に感じる地面の感覚、
耳に聞こえる音の感覚、
目の前に見える、何かになる前の景色。
意図も判断も説明もここでは必要ありません。
目の前のコップをコップだとする必要もなく、
ただ、景色としてあるだけです。

心に湧き上がる感情、
それが不安だったり心配だったり、
記憶の中にある怒りだったり、悲しみだったり、
それをただ見てみるんです。

悲しみである以前の、ただのエネルギー的な感覚。
怒りである以前の、湧き上がる感覚。
それだけをただ見てみるんです。

そこには、自分の外とか自分の内という区別もありません。

あらゆることをみることができます。

外の景色も、自分の中にある感覚も、
平等に、ただみることができます。

純粋な鑑賞者になりきるんです。

判断もレッテル貼りもしない、純粋かつ何にもしない
ただの鑑賞者です。

すると、次第に、この鑑賞者であるという感覚さえも
みることが出来る、という事に気づけます。

全てを見ているという鑑賞者も、
景色や、思考、感覚と同様に見れるんです。
この鑑賞者も一つの思考、一つの概念として見れることに気づくんです。

すると、鑑賞者も一つの風景のようなものであって、
その鑑賞者が何かを見ていたんじゃなかった、ということが明らかになります。

全てを見ているけれども、見ている鑑賞者はいなかったわけです。

見ている主体と見られている客体という区別も一つの概念としてみることができます。

そして、主体と客体も一つの中に溶け合います。

すると、もうここには見ている者は消えて無くなります。

そうなってくると、
「どういうことだ?」
とか、
「一つに溶け合ったワンネスを見ている自分」
といったような概念も現れてくるかもしれません。

自分という中心点を取り戻そうという働きが出てくるかもしれません。

それも一つの現象として、みることができます。

見ている自分が消えて、起こっていることだけが残ります。
明らかさが鮮明になってきます。

その中に溶け、そこにリラックスするんです。

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