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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

「これ」しかないんやで

私はいない

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ほーーん。
というわけで、おはようございます。タクサンです。

なんかあれですな。
こういうことってあんまり理屈っぽく解説すると余計にややこしくなってきますね。

理屈を追うと更なる理屈を呼び、またその理屈が理屈を呼び、

ってね、
そんな思考の追いかけっこが始まるんですよね。

せやから、ホンマにもう、
わっかんなーい!でええやんなぁーって思います。

思考とか分離とかって全然悪い事じゃないんですよね。

どちらかというと、そういった分離から生まれる物語って
醍醐味でもあり、ミラクルじゃないですか!

それが面白いからみんな面白がってるわけですしね。

なーんもないところに、反応が起こるわけです。
そして、その反応に理由づけすることで物語は始まるわけです。

そして、なぜかその物語の方だけを現実だと受け取るんですね。

ここで、なーんもない「それ」は置き去りにされちゃうんです。

で、置き去りにすることで、「なにかが足りない」と感じるわけですね。
このあたりで、その面白さの中に苦が生じてくるんですね。

そんでもって、この何かが足りないが到達点を求めるわけです。
安心、幸せ、目覚め、悟り。
みたいな、何かを求めるんですね。

すると、思考やら感情が、分離を生んでいる元凶なんだ!
という仮説を立て始めるんです。

で、それらを排除し、スタート地点に戻ろうとするわけですね。

この辺の試みが上手くいったように見えるときに、
一瞬の無思考状態を体感したりして、それが一瞥体験として体験されたりして、
すると、余計に、思考や感情、マインドを打ち消そうという仮説を信じ込んだりしちゃってね。

でも、そーゆ~ことじゃないんだよねーん。
って僕は思っているわけなんですけどね。
この辺のこと上手く表現できへんやろかー?ってね。

なんかそんなことを思ったときだけ、こうやって書いたりしてるわけなんですけどね。

これってね、
分離とか探究とか、思考とか感情とか、
そんなのもホント無いんですよねー。

ぜーんぶ物語を成立させるための小道具のようなものなんですよね。

どこからどこが、探究の範囲で、分離感ってのはどこの部分?ってね、
見てみると、そんな範囲ってないんですよね。

だから、もう、これしかないんですよね。

ホントは目覚めも解放も、そんなのもなくてね。
誰が何から目覚めるんですか?ってことでね。

誰もいないなら、あんたどうやって生活とか仕事とかしてるんですか?
ってね、思ったりされるかもしれませんけど、

ホント、誰とか自分とか、そんなもん無くてもちゃんと機能してるんですよね。
で、無い中で仕事の打ち合わせもちゃんと起こってるんですよね。
「ここは私の方でまとめておきます!」とか言ったりしてるんです。

昨日も、仕事でプレゼンしてきましたしね。
「御社の特長を、この言葉とイメージで表現しています」って、
眠たいなーって思いながら言ってたわけなんですけど。

そういう事もちゃんと起こってるんですよ。

こういう起こることに対してね、いろいろと反応が起こったりしてね。
その反応に思考を重ねて物語っぽく仕立て上げられてりしてね。

はっ!この仕事ってのも物語なのでは?
私がまとめておきますとか言ってるけど、その私はいないのでは?
今仕事でやってるこの打ち合わせってのも、幻想に過ぎないのでは?

みたいなね。

そうやって、またもや何もない中で後付けでいろんな思考がわいたとしても、
その思考だけを採用する?っていうか、そこだけを現実として受け止めるということが、
また、なんもない「これ」を見失って、また「足りない」を生み出したりするんですよね。

で、それはそれで、
そういう風に感じていたとしても、ほんともう「これ」しかないんですよね。

自分がいなくなるってのは、こういった後付けの自分という概念のウソさが定着してくるっていうか、
いちいち後付けする意義がなくなってくるんですよね。

これって、誰かが解放された!誰かが目覚めた!
ってことじゃないんですよね。

何の変化もないわけです。
本質的には。

最初っから変わらずこれだけ。みたいな感じなんですよね。

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