Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟りの印可

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悟りとかを教えている、とある団体では、
在る程度の認識が進むと、
悟りの印可を与えられたりするそうです。

悟りの印可というのは、
あなたは、悟りましたよー。
と言ったような、お墨付きみたいなものだそうです。

そのお墨付きがあれば、
他の人々に悟りを教える許可が与えられるのだとか。

「悟りのライセンス」

みたいなものなんですかね。

ま、そういうライセンスがあるというのも、それはそれで面白いからいいんですけどね。

でも、悟りっていうのは存在しないんですよね。
それがあると思っているのは、そこに何かしらの掴めるものがあると思っていることであり、それには、つかむ誰かがいるということとなります。

でも、そんな誰かって存在しないんですよね。
なので、その念願の印可をもらったとしても、
それも、一つの物語の中のルールの上で成り立った、
そのルールの中だけのアイテムであり、
その印可に価値があると思っているのであれば、
その遊びである物語の中のルールに従っているということでしかないわけです。

で、印可も悟りも物語でしかなかったと、笑える時、
そこに価値も意味もないと自分の腹に落ちた時、
あらゆる執着は意味を失い、力を失います。
それが探求の終わりです。

皮肉なことなんですが、
印可をあげたり、もらったり。
そういうことへのこだわりが執着であり、
そのこだわりがあるうちは、執着があるということになる。

あんなに欲しかった印可状が、
トイレットペーパーと何ら変わりのない
同じ価値のものである。
用途は違っても価値に優劣は無いんです。

その理解が腹に落ちた時が、
探求の終わりになるんですね。

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