よくもらう質問で、
「話はホントよくわかるんですけど、やっぱりまだまだ
思考や感情が重苦しく襲いかかってくるんです〜。」
「思考が物語だとわかっていてもやっぱり起こってくるんです〜。」
みたいなニュアンスのものが多いんですけどねー。
ま、思考や感情が殴りかかってくるわけじゃありませんので、襲いかかってくることはないと思うんですけど、
もし、ある種の思考や感情が「あってはならぬ!」ってどこかで決めていたジャンルの事やった場合は、どうにも重苦しく襲いかかってくるような錯覚が起こってるんやと思うんですよね。
また、
「どんな思考や感情も物語なんやからそこからワイは解放されるで!」
ってどこかで決めてたのだとしたら、
思考や感情が現れるたびに、
「あかん!まだ解放には程遠いで!」
って思ってしまったりするんですねー。
でね。この話っていうのは、別に
思考や感情が現れなくなるっていうのとは違いますのでねー。
思考も感情もないロボットのような人になるっていうのとは全然違います。
これは何かにならねばならないという思い込みのクセからの目覚めの話なんです。
思考とか感情とか
そんなもん変わらずに起こり続けるんですよね。
でもって、
「それは幻想やで!」って思ってみたとしても、
その「幻想やで!」っていうのも思考の声なわけです。
またね、
この重苦しい感情は幻想のようなものだから心配しなくてもいいよね!
って自分に言い聞かせる方便をゆうてるわけでもありません。
まあ、実際のところ、心配の必要性は一切ないんですが、
それは幻想やから安心、嘘やから安心とかそういう事ではないんですよねー。
幻想やとすると幻想じゃない本物の何かがどこかに存在するのか?
と言いますとそんなこともありませんのでね。
どんな思考や感情もそりゃ起こるわけでございます。
でも、それになんの強制力も無いんですよねん。
せやからほっておいても良いですし、聞いてもいいわけです。
ただ、その思考の網にとらわれる必要は全くないっちゅうわけですね。
でもって、囚われるというのも単なる思い込みであって、
誰も最初っから囚われてすらいないっちゅうことなんですよねー。
いずれにしても、問題があると思われる思考や感情の中に問題があるというよりは、
その大前提にある「あってはならぬ!」っていうある種のポリシーの方が、そういった思考や感情を問題視しておるわけでございます。
そうかなるほど!
ではこのポリシーを浄化しなければ!
ってなるのかもしれませんが、
まあ、そのポリシーも単なる言葉にしか過ぎませんのでね。
別に浄化が面白ければやればいいと思いますが、
言葉は言葉として単に置いておいたら良いんですよねー。
置いておくというのは、
思考や感情の声に対して、
「ほほう。。。あっそう!」って返事だけしておくって感じでしょうか。。。
で、特に何かを限定しない全体にリラックスしてみることを優先させたったらええんですよねー。
リラックスしたら動けなくなるってわけじゃありません。
リラックスしながらも色々とやれるんです。
「リラックスとはこういうものだ!」
っていうのもある種の限定ですのでね。
限定をすると、全体を見失うわけでございます。
だからといって、目を閉じたらいきなり床が抜けるというわけでもなく、
見ようが見失おうが全体は全体ですのでそこから分離することはありません。
分離感とは、分離したつもりを演じとるだけなんですよねん。
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