おはようございます。
ゴールデンウィークいかがお過ごしでしょうか?
さて、「真我」「それ」についてはなんとなく、何かを掴みかけてる。
でもまだ想念や思考は依然として起こるので、至っていないのではないか?
と思ったりすることってありませんか?
今日はこの辺りのことについて書いてみようかと思います。
ちょっと話は変わりますが、
キリスト教なんかの教えでは、
原罪というものがあります。
アダムとイブが知識の実を食ったことで、神に反逆した罪があって、その罪が人類全体に影響を与えている。
みたいなやつです。
なんか、生まれつき罪を持ってるとか言われると、どうにも気分が落ち込みがちですが、
本来の罪の意味というのは、「的を外す」という言葉が語源となっているとどこかで聞いたことがあります。
そうすると、この原罪という意味が途端に納得できてきます。
人が持っている知識というものが、本来の世界(神)を見る方向性を見失う(的を外す)原因となっている。
知識というのは、知っている事(記憶)、そして知ろうとすること。
これは、何かを掴み取り理解しようとすること、また理解していることから判断をすることです。
それが、的外れになる原因となってる。
人間は生まれつき、この的外れをするクセがある。
っていうことですね。
■■■
と、いうわけで、
「想念や思考がまだ起こる」だから、「まだまだそれに至っていない」
という考えについてです。
これも、基本的には、何かを掴もうとするクセが働いているからこそ起こる考えなんですよね。
だから、延々と瞑想や修行や悟りの先生探しを繰り返したりしてしまうんです。
で、その何かを掴もうとするクセは「自分」という主体があるという概念がバックにでーんと構えています。
掴もうとする誰かがいるわけです。
このクセがあるとどうしても因果から抜けられないんです。
因果とは、何かがあるからこうなる。といったような「原因と結果」の考え方です。
この「想念や思考がまだ起こる」から、「まだまだそれに至っていない」という考えについても、そもそもの誤解が存在します。
それは、「自分が悟ったら、自分を煩わす想念や思考は起こらなくなる」という誤解です。
多分、語られる聖者さんとかが、満ち足りていて、ニコニコしていて、愛にあふれたまなざしをしていて、
みたいなイメージがあるからなんだとおもいます。
また、エロイ先生なんかが、
「私はいません」「何も起こっていません」
とか言ったりするから、なんかこの現実という次元とは違う別世界の住人みたいなイメージを持ってしまっているからなのかもしれません。
これらのイメージも、何かを掴もうとするクセが起こしている的外れなイメージなんです。
そのイメージが、悟りみたいなものに至るには、想念や思考を滅却しなければならないといった物語を生み出してます。
実際のところはどうかと言うと、
まず、悟りといった何か特別な次元がどこかにあるというわけでもなく、そこに至るだれかがいるわけでもありません。
もし、あなたに
想念や思考が起こっているのだとしたら、
それは「あなたに」起こっているのではなく、ただ単に想念と思考が起こっているという事なんです。
どうしても、この想念自体が「自分」だと思ってしまいますが、そんな自分やワタシなんてものはどこにもないんです。
想念や思考が起こらなくなるのではなく、それらを所有する誰かってのは最初っからいないという見抜きなんです。
想念や思考、ありとあらゆることは起こる可能性があります。
ただ、それを所有する誰かというのは最初っから存在していないんです。
そして、想念や思考は起こっては消えていきます。
風のようなものです。
風が一切吹かないようにしたいねーん。というのは無理ゲーなんです。
起こっては消えていく風のようなものを自分という概念が掴んでしまう事が、心の重さを生み出しているんです。