お釈迦はんは欲を捨てよみたいなことを言ったことになってます。
ホントに言ったかどうかは知りませんけどね。
これが、あらゆる修行や瞑想等の根拠になってるのかもしれませんね。
なんか、欲が悟りを妨げている。。。
みたいな感覚。
欲ってのは期待であって、思考なんですよね。
思考ってのは、常にどこかに向かっていて何かをかなえたり解決したりしようとする衝動のようなものなんじゃないかな?って思います。
なので、思考って今じゃないどこかに向かっているんですよね。
でもって、修行や瞑想とかも、そういった欲=思考を統制しようとする行為である場合もあると思うんですよ。
そして、こういったことって、たいがい上手くいかないんですよね。
一時的に上手くいった!と思っても、結局それも勘違い。みたいなね。
僕も以前、瞑想教室に通ってたことがあるんですけどね。
そこの先生も、
「お試し期間がやってきましたー」とかいって、悩み苦しんだりしてました。
結構しょっちゅう。。。
でも、瞑想をしているおかげで、以前は乗り越えられない苦悩も乗り越えることが出来るようになってきていますー。
みたいなことを言ってました。
でもね、結局「苦悩を乗り越えたい」という思いは、期待であって、欲なんですよね。
そして、期待しないことを自我に強いるのはとても辛く悲しく寂しく感じるものです。
期待である思考は常にどこかに向かってなにかをかなえるというほうこうにむいているからです。
その思考自体が自我だからですね。
どこかに向かうからには、その主体が必要になります。
なので「自分」という概念が創り上げられるんですね。
またその「自分」という概念が思考を産み出します。
思考が先で、「自分」が後というわけではないんですけどね。
鶏と卵どっちが先か?みたいなもんで、
答えは無く、卵も鶏も鶏やんけー!
てなもんで、
思考も「自分」も思考やないかー!という事です。
時間のない空間で、ただ思考がくるくると輪廻しているんです。
修行によって、悟りに到達する。
とか、
瞑想して思考を消し去る。
っていうのは、
そういった期待(思考)で思考を消し去ろうとしているだけなんです。
それは、自分で自分を持ち上げようとしている。みたいなことで「無理ゲー」なんです。
だから、期待や目的がある修行や瞑想は上手くいかないんです。
僕が感じている感覚は、
起こることのすべては、天気のように勝手に起こっているものであって、それをコントロールしている誰かというものって存在してないんです。
その天気の法則の中には「因果の法則」みたいなものがあるように見えますが、それも結局のところ思考の一部です。
そして、起こっていることは起こっているとみなしているときだけ、そう見えているんです。
つまり、ホントはなーんにも起こってないんですよ。
起こってて、起こってない。ってのが矛盾なく存在しているんですよね。
矛盾って、自我目線では受け入れられないわけのわからないものですが、
それは、自我、つまり思考は何かを明確にするという動きだからなんですよね。
思考には実体があるわけじゃなく、明確にする動きがエネルギーとして動いとるだけなわけです。
空気の中で風が起こってるみたいにね。
なので、何かをわざわざ明確にする必要なんてのも、ホントはないんですよね。
その必要性があるのは思考だけなんです。