Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

セルフイメージと構築される世界。

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気づきとは、
「ぼくらって考えに支配されちゃってるよね〜」
ということについて気づくということなんです。

アレやコレやといった思考のストーリーが起こっていて、それに囚われている間だけ、そのストーリーが展開されますが、
どんな思考が起こっていても、同時に、なんの問題も介在しない今がココにあります。

思考にとらわれている自分も、
うまく気づけていない自分も、
思考に気づいている自分も、
悟った自分も、
開放された自分も、
非二元の自分も、
これまたぜ~んぶ、ストーリーの中にあり、
これら全てに価値の差はなく、
単に想念としてイメージされているだけであり、
このイメージには何かしらの大きな力も働いていないんです。

そして、あるのは、今の完璧さ。
全部だけなんですよねー。

なので、思考の中でどんな不安に襲われていたとしても、
大丈夫なんです。

 

不安も恐怖、思考のイメージの中にしかありません。
これは、私の身体だというのもイメージの中にしかないアイデアです。

ココロは、不安は不安として認識しますので、それを変えることは難しいかもしれませんが、
そのココロもまたイメージの中にしか無いんです。

このことへの気付きが始まると、気づきに気づきが重なっていきます。
それは一気に起こることもあれば、徐々に起こる場合もあるみたいですが、
単に、イメージをイメージとして扱うようになってくるということなんです。

気づきの状態でいようとする自分もまた、イメージの中の住人ですので、
そういうふうになるには、どうしたら良いんだろう?といった疑問もまた、イメージのひとつなんですよね。

でね。
そうなってくると、
そういう話は、わかるようなわからないような。。。
なんかそんな感じなんですが、じゃあ具体的にはどうしたら良いのん?

「だったらどうしたらいいんじゃーい!」っていうジレンマがあったりするわけなんです。

僕も、しょっちゅういただく質問としては、
「で、何もしないために、何をすればいいの?」
といったような質問だったりします。

このジレンマの原因は、何かを掴んでは理解をしていく。というクセにあるんです。
このクセをクセと見抜いていく。

ウソをウソと見抜いて行くのが健全なインターネッツの使い方です。
なんて言葉がありましたが、まさにクセをクセとして見抜かれると、クセをクセとして扱えるようになってくるという感じなんです。

で、求められているのは、そうするための万人向けのシンプルな方法!
だったりするわけですが、実はそういったものは無いんですよねん。

一応、万人向けの方法として、瞑想だったり座禅だったりがあるわけですが、
それって、気付きの道につながっているのかというとそうでもなくて、
場合によっては真逆じゃん!という場合も結構あったりするんですよー。

そして、この先に気づきがあるという思いがある場合は、大体、方向が真逆だったりするんです。
意地悪なことにねー。
まあ、逆というよりは、一つの想念を持ち込んじゃってるよねーってことなんですけどね。
例えばそれは、
「瞑想をして自分がより進んでいる」
みたいなやつです。

気づくきっかけの一つが、
「あー!私ってば、この私を通して世界を見てたけど、この私って、いないじゃーん!」
みたいな気付きだったりするわけです。
そうなってくると、もうあるのは、気付きの意識だけじゃん!ってことになるわけですが、

これ、、、、。

言葉で聞くとなんのこっちゃ???
ってなりますよねぇ。

この私っていうのが、いわゆるセルフイメージのことだったりするんです。

そして、あらゆる想念の世界はセルフイメージを通して見られます。
セルフイメージは、あってないようなものと言えるかもしれません。

それは、実体があるものではありませんからねー。
つまり、捉え方のクセのようなものですので。

だから、私というのはいないとも言われているわけです。だって実体があるものじゃないですからね。

「私はいない」を私の安心材料にしようとする事とは、ちょっと違うんです。

そして、この私というものに気づくのって、簡単そうで難しくて実は簡単。
シンプルすぎて逆にややこしい。
ってことなんです。

なので、あー、こういうセルフイメージを通してたのね!
って気づく場合って、

たまに、そのセルフイメージが構築されていく様を客観視してる時に
超スローモードのようにそれを見て取れる場合とか、
人との会話の中でハッ!と気づく場合とか、
いろいろとあるわけです。

ただこれを自力でやろうとすればするほど、ハマっちゃうという場合もあるわけなんですよね。
やろうとすればするほどできない。みたいなねー。

ほら、自分って、自分のこと結構わかってなかったりするじゃないですか。
それと似てるかもしれません。

わかったつもりになればなるほど、全然客観視できてない。
みたいなねー。

ちなみに、セルフイメージって、一つじゃないので、結構ややこしかったりするんですが、
こいつがセルフイメージなんか!って一個見れちゃうと、あれよあれよと今にリラックスしやすくなってきます。

なんていうか、セルフイメージを書き換えていこうとか、無くしていこうとか、
そういう話でもなく、
セルフイメージをうまく見れる自分になる!というのともちょっと違うのでややこしいのですが、
セルフイメージがあって、そこから世界が展開するならそれでいいじゃん!
だって、赤いメガネをかけようが、青いメガネをかけようが、世界に何の影響もないんだからー。
ってね、許されちゃうんです。
許されちゃうと、執着という、ペタッとくっついてる粘着力が弱くなってくるんですよねー。
結局、もともとは許ししかない。っていうか、誰も何も禁止してない。
という事なので、何でもかんでも許されているということが発見されていく。
みたいな感じかもしれません。

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