Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考は砂地獄のようなもの

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【はじめに】

ほい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさん。
今日も謳歌されておりますでしょうか?

まーねー。
こういう話を聞いてますとね〜。

「それじゃあ、あまりに無責任ではないか!」
とか、
「いや、私はいるじゃん!だって・・・!」
とか
「えー!意味はあるでしょう!なぜなら・・・。」

ってな思考って湧いてきちゃいますよね。
そして、「私はいるじゃん。なぜなら・・・」
に続く「・・・」には至極真っ当な言葉が続くんですよね。

こういう話ってね。
「意見」としてとらえちゃうとハマっちゃうんです。

何にハマるのかというと、思考にハマるんです。

これって、賛同するか否か?といった話じゃないんです。
正しいか間違いか?という話でもありません。

思考にとらわれないという話なんですよね。

でも、思考は
賛同できる?できない?
という話題に引っ張ってこようとします。

そうしないと、思考の立ち位置がなくなっちゃいますからね。

思考は、その思考が存続する方向へと誘導してくるんです。

 

【思考が受け入れられないのは当たり前】

こういう話って、
思考が受け入れられないのは当たり前なんです。

だって、思考から離れましょう!って話をしてるんですもんね。

思考の絶対命題は、続かせることです。
壊れたCDのように、何度も繰り返しをしてでも、
そのおしゃべりを続かせようとしてくるんです。

だからこの話って、絶対に思考では受け入れられない話なんですよね〜。

だから、
「ええ!そんなの絶対に受け入れられない!」
ってなるなら、それはあたりまえの反応なんですよね。
だから、それで良いんです。

そしてそれは、思考が今、頭の中でそう言ってる。
というだけなんですよね。

そこに正しさも間違いもないわけです。
立たしさも間違いもない中、
思考は何が正しいかにこだわってるだけなんです。

【思考は常に何かしらのルールを採用している】

これは、サッカーのプレイ中は、手でボールを触らない!ということにこだわってる。
というのと似たようなものでね。
そもそも、ボールを手で触ることは間違っている!
なんてことはないわけでしてね。

ただ、サッカーのルール上ではそうなっているだけということです。

思考も同じで、ルールに沿わないものは間違いである。
としているだけなんですよね。

そして、このルールについては、その時の思考が採用しているルールに則るんです。

ちなみに、いつも同じルールを採用しているのか?
というと、そうでもないんですけどね。

ただ、得てして僕らは、今、どんなルールを採用しているのか?というのを忘れてたりするんですよね。

それってね。
サッカーをやってることを忘れて、サッカーをしているというものなんです。

【思考の判断がどうあれ、それで良し!】

ま、ここで言ってる話はね。
思考の判断がどうあれ、それを否定しているわけではありません。
それは、ただ思考はそのように起こっている。
以上!

なんですよね。

ただね。
全ては思考の中にあるわけではありません。
これは錯覚なんです。

僕らはついつい思考の中だけに入り込んじゃって、
全ては思考の中で完結できるように思い込んじゃうんです。

だから思考に深く入り込んでいくわけですが、
そうすることで、いろいろと緊張したりしてるんですよね。

そして、思考が思う「こうしたい」の奴隷になっちゃったりするんです。

これに歯向かうと、体が緊張状態になっちゃうんですよね。

そしてそのうち、思考に振り回され始めるんです。

まるで、思考の意に沿わないと電流を流されるっていう、そんな拷問をされているかのようにね。

そもそも、思考はご主人さまではなくツールなんです。
その関係性に戻るには、思考の奴隷から目覚めることなんですよねー。

流されている電流って、実は思ってるほど強くはないんです。
それよりも、自分で頬をつねる方が痛いんです。

それが思考で増幅されてるんですよねー。
ま、このあたりの仕組みが見抜かれていくわけですが、
この見抜きを思考でやろうとするとまたハマっちゃうっていうね。

そういうジレンマがあるんですよね。

まるで手足をバタバタと動かすほどに引きずり込まれる砂地獄のような感じでしょうかねー。

 

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