Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分が消えても大丈夫!【非二元】

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おはよーございます。
タクさんです。

みなさん。お元気でしょうか?
体調の方はいかがでしょうか?

僕の方はですねぇ。
やっぱり目を酷使する仕事をしているせいか、
目の疲れからくることが多いですねー。

まあそれはさておき、

自分が消える。

こういう体験をされた方。
もしくは消えそうになってビビった方もおられるかと思います。

これねぇ。
最初はめっちゃ怖いんですよね。

「やべぇっ!死ぬっ!!!」

って思っちゃうんですよねー。

「ひゅぅー!!!やべえやべえっ!」

ってなったりしますもんねー。

でも面白いことに、自分っていうのは、僕らが何かしらの考えをめぐらしている間しか存在してないんですよね。
巡らせている考えの中に記憶も絡んできますので、ずっと自分がいるように錯覚させているわけですが、僕らは常に考えを巡らせているわけでもありません。

不意になーんにも考えてない時って結構あるんですよね。

この何にも考えていない時って普通は無意識だったりするんですが、
時に意識的になることがあったりするんです。

するとすぐに自分というものを掴み取ろうとするわけですが、
なんていうか、手が滑るって感じで、うまく掴めない瞬間があったりすると、
僕らは焦るんです。

ま、思いっきり酔っ払って記憶もないまま寝た時に、見知らぬ場所で目を覚ました時って感じですかね。
全く状況がつかめないと、思考ちゃんはとっても焦るんです。

この焦りは危機感として演出され、その演出が恐怖を生み出すというわけです。

僕らは、朝起きる時、一番最初にすることが、この自分をいう概念設定です。
その後で、今日は何曜日で、何をして、これをして、、、。
あ、腰が痛い、少し寒い。。。

と色々な考えを巡らせ始めるんです。

 

まーなんていいますか、
面白いのはね。
自分がいないと焦っていようが、なーんにも考えてなかろうが、
側から見ると、普通に神妙な顔をしている。
ってところですかねー。

つまり、側から見ると一緒なんです。

見た目は何にも変わってない。っていうねー。

自分というものを掴んでようが、自分が消えていようが一緒なんですよね。

自分がいないっ!ってなっても、何も失っていないので、そこで焦る必要は全くないんです。

この辺の滑稽さを笑えると、自分という夢の正体も浮き彫りになってくるかもしれません。

僕らはまさに命の表現そのものですが、その生命を自分と重ね合わせているために、
自分が消えると命の全てを失うと錯覚しているんです。

この錯覚が恐怖を演出するわけです。

そしてこの錯覚が、常に自分を失うのを恐れ、
自分がより失われないように、周りと比較し、より強くあろうと振る舞うんです。

より強くあろうとする振る舞いを無くそうとしてもそれは無理ゲーです。
ただ、また働いとるなぁー!と微笑んであげることはできます。

僕らは何も得てないし何も失ってもいないのに、自分という観念は、得て失う夢をみているんです。

こんな自分を可愛い振る舞いとしてみてあげたら良いんです。

可愛く微笑んでみてあげることによって、自分は許され、自分という夢から覚めることになります。
もちろん、夢から覚めたところで、ちゃんと自分は機能し続けるわけです。
ただ、機能する自分から深刻さが消えていくだけです。

心もまた、自分という観念ありきで働きます。
それが受け入れられ許された時に、あらゆる心の振る舞いの仕組みもまた、
可愛い働きとしてあらわになるんです。

そういうわけですので、もし自分が消えた!としても、
焦る必要はありません。
ほほーんとのんきに構えてたらいいんです。

何も失いませんのでねん♪

 

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