Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

僕らが幻想のストーリーに入り込んでいくカラクリ

はじめに

どもー!
おはようございます。タクさんです。
みなさん、今日も様々な感情を感じてらっしゃるでしょうか?

僕らってね。
感情を条件反射的に言葉に変換するじゃないですか。
そして、その言葉に縛られてしまうんですよねー。

感情に縛られてるんじゃなくて、その実、言葉に縛られてる。なんて厄介なことになったりするんです。

どういうことかというと、例えば、心がザワザワとしたときに、「お!これは不安だ!」と不安というラベルをつけたり、
ムカムカーッ!と感じたなら、「怒り」というラベルをつけたりしてね。

そして、自分は不安を感じている。だとか、私は怒っている!と思い込んでしまう。
ということです。

そして実際にはなんでもないエネルギーの流れにすぎなかった感情が、意味を持って固定化されてしまうんです。

そうやって言葉に置き換えた途端、ただの流れだった感情はまるで「もの」であるかのように振る舞い始めるんです。

元々は、単なる感覚に過ぎなかったものが、ものとして心の中にデーンと鎮座しているかのような錯覚を持ってしまうんですねー。

・言葉が分離を生む

僕らって、何かわからないことを理解しようとする時って言葉で理解しようとしますよね?
なんだか心がザワザワする時。これは流れとしてただザワザワしてるだけなんですが、「何が起こってるんだろう?」と探り、「これは不安だ!」と言葉にします。そして理解した!と思い込むんです。

ですが、この理解こそが分離を作ってるんです。
言葉にする前は、感情や感覚はただそこに波のように起こっては消えていくだけのものだったのが、言葉にしたとたんそれは「私の」不安。「私の」怒り。といったように、「私」が所有しているモノにしてしまうんです。

「私の」というありもしない枠を作ってしまうので、まるでそれは「自分のもの」であるかのように錯覚してしまうんです。

これって、ただの現象を自分の所有物であるかのように思い込んでいるようなものなんです。

ただの雨模様を、「私が雨男、雨女だから雨が降ってるんだ」みたいに錯覚しちゃうといったのと似たようなものですねー。

そしてさらにそこからストーリーを肉付けしていき、幻想のストーリーの中に入り込んでいくんです。

・言葉の手放し

実際のところ、不安や怒りというのは実在していません。ただなんでもない何かが現れて、変化を繰り返し、そして消えていく。それだけなんです。
この現象の一部分に名前をつけることで、「これは怒りだ!」「これは不安だ!」と思い込んでいるだけなんです。

しかも、この名前のつけ方すら結構いい加減だったりして、本当は恐怖なのに怒りという名前をつけたり、寂しさなのに不安と名付けたりしていることすらあるんです。

思考を置いておくと言われると、ちょっとどうしたらいいのかわかんない。
ってなる方もおられるかもしれませんが、これは「言葉を置いておく」というのと同じでもあります。

思考ちゃんのストーリーは言葉で構成されてますからね。
一旦、その言葉をおいておいてみればいいんです。

すると、目の前の世界ってホントーに言葉なしで存在しているということが実感できるんじゃないかなーって思うんです。

空を見上げたって、その空に「ソラ」とは書いてませんし、雲にしたって、「クモ」と書いてあるわけじゃありません。
なんでもない何かが常に変化しているだけ。
これは全てにおいてそうなんですよね。

僕らが今まで、いかに言葉に置き換えた世界に入り込んでいたのか?なんてことにも気づけるかもしれません。
そして、そんな世界は実在していないんです。

世界は言葉で表現されるほど複雑じゃなく、とってもシンプルなんです。
そして、僕らもまたこの世界そのものなんです。

 

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